燕尾服着初の記
徳富盧花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)逗子《づし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一難|纔《わづか》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「宛+りっとう」、第4水準2−3−26]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)のそり/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    (一)

 此れは逗子《づし》の浦曲《うらわ》に住む漁師にて候、吾れいまだ天長節外務大臣の夜会てふものを見ず候ほどに、――と能《のう》がゝりの足どり怪しく明治卅二年十一月三日の夕方のそり/\新橋停車場の改札口を出で来れるは、斯く申す小生なり。
 懐中には外務大臣子爵青木周蔵、子爵夫人エリサベツトの名を署《しよ》したる一|葉《えふ》の夜会招待券を後生大事と風呂敷に包みて入れたり。そも此の招待券につきては、待つ間の焦心《せうしん》、得ての歓喜、紛失の恐れ、掏摸《すり》の心配は、果たして如何なりけん。貧乏人が一万円の札を手に入れたる時の心地ぞ斯くある可しと思ひぬ。偖招待券は首尾よく手に入りぬ。一難|纔《わづか》に去りて一難また到る、招待券には明記して曰く、燕尾服着用と。燕尾服、燕尾服、あゝ燕尾服、爾《なんぢ》を如何《いかん》。小生の古つゞらに貯《たくは》ふる処は僅にスコツチの背広が一|領《りやう》、其れも九年前に拵《こしら》へたれば窮屈なること夥《おびたゞ》しく、居敷《ゐしき》のあたり雑巾《ざふきん》の如くにさゝれて、白昼には市中をあるけぬ代物《しろもの》。あゝ困つたな、如何したものであらう、損料《そんれう》出して古着屋から借りるかな、など思うて居る内、燕尾服が無くて困るだろう、少し古いが余計なのが一領ある、貸してあげよう、ついでに着せもしてやらうと青山の兄から牡丹餅《ぼたもち》の様に甘《うま》い文言《もんごん》、偖こそ胸《むね》撫《な》で下し、招待券の御伴《おとも》して、逗子より新橋へは来りしなりけり。
 燕尾服の手前もあれば、停車場前の理髪店に飛び込み、早く早くとせき立てながら、髪苅《かみか》り、髭剃《ひげそ》り、此れならば大丈夫と鏡を見れば、南無三、頭は仏蘭西《ふらんす》
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