に来て、涙を流して白に別れた。田圃を通って、雑木山《ぞうきやま》に入る岐《わか》れ道まで来た時、主人は白を抱き上げて八幡下に立って遙《はるか》に目送して居る主婦に最後の告別をさせた。白は屠所の羊の歩みで、牽かれてようやく跟《つ》いて来た。停車場前の茶屋で、駄菓子《だがし》を買うてやったが、白は食《く》おうともしなかった。貨物車の犬箱の中に入れられて、飯がわりの駄菓子を入れてやったのを見むきもせず、ベソをかきながら白は甲州へ往ってしもうた。
三
最初の甲州だよりは、白が赤沢君に牽かれて無事に其家に着いた事を報じた。第二信は、ある日白が縄をぬけて、赤沢君の家《うち》から約四里|甲府《こうふ》の停車場まで帰路《きろ》を探がしたと云う事を報じた。然《しか》し甲府からは汽車である。甲府から東へは帰り様がなかった。
赤沢君が白を連れて撮った写真を送ってくれた。眼尻が少し下《さが》って、口をあんとあいたところは、贔屓目《ひいきめ》にも怜悧な犬ではなかった。然し赤沢君の村は、他《ほか》に犬も居なかったので、皆に可愛がられて居ると云うことであった。
*
白が甲州に養《やしな》われて丁度一年目の夏、旧主人《きゅうしゅじん》夫妻《ふさい》は赤沢君を訪ねた。其《その》家《うち》に着いて挨拶して居ると庭に白の影が見えた。喫驚《びっくり》する程大きくなり、豚の様にまる/\と太って居る。「白」と声をかくるより早く、土足《どそく》で座敷に飛び上り、膝行《しっこう》匍匐《ほふく》して、忽ち例の放尿をやって、旧主人に恥をかゝした。其日は始終《しじゅう》跟《つ》いてあるき、翌朝山の上の小舎《こや》にまだ寝て居ると、白は戸の開《あ》くや否飛び込んで来て、蚊帳《かや》越《ご》しにずうと頭をさし寄せた。帰《かえ》りには、予め白を繋《つな》いであった。別《わかれ》に菓子なぞやっても、喰おうともしなかった。而《しか》して旧主人夫妻が帰った後、彼等が馬車に乗った桃林橋《とうりんきょう》の辺まで、白《しろ》は彼等の足跡を嗅《か》いで廻《まわ》って、大騒ぎしたと云うことであった。
翌年の春、夫妻は二たび赤沢君《あかざわくん》を訪うた。白は喜のあまり浮かれて隣家《りんか》の鶏を追廻し、到頭一羽を絶息させ、而《しか》して旧主人《きゅうしゅじん》にまた損害を払わせた。
其《その》後《のち》白に関する甲州だよりは此様な事を報じた。笛吹川《ふえふきがわ》未曾有《みそう》の出水で桃林橋が落ちた。防水護岸の為|一村《いっそん》の男総出で堤防に群《むら》がって居ると、川向うの堤に白いものゝ影が見えた。其は隣郡に遊びに往って居た白であった。白だ、白だ、白も斯水では、と若者等は云い合わした様に如何するぞと見て居ると、白は向うの堤を川上へ凡《およそ》二丁ばかり上ると、身を跳《おど》らしてざんぶとばかり濁流、箭の如《ごと》き笛吹川に飛び込んだ。あれよ/\と罵《ののし》り騒ぐ内に、愚なる白、弱い白は、斜に洪水の川を游《およ》ぎ越し、陸に飛び上って、ぶる/\ッと水ぶるいした。若者共は一斉《いっせい》に喝采の声をあげた。弱い彼にも猟犬《りょうけん》即《すなわ》ち武士の血が流れて居たのである。
白に関する最近の消息は斯《こ》うであった。昨春《さくしゅん》当時《とうじ》の皇太子殿下今日の今上陛下《きんじょうへいか》が甲州御出の時、演習御覧の為赤沢君の村に御入の事があった。其《その》時《とき》吠《ほ》えたりして貴顕に失礼《しつれい》があってはならぬと云う其の筋の遠慮から、白は一日拘束された。主人が拘束されなかったのはまだしもであった。
四
白の旧主《きゅうしゅ》の隣家では、其家の猫の死の為に白が遠ざけられたことを気の毒に思い、其息子が甘藷売りに往った帰りに神田の青物問屋からテリアル種《しゅ》の鼠《ねずみ》程《ほど》な可愛い牝犬《めいぬ》をもらって来てくれた。ピンと名をつけて、五年来《ごねんらい》飼うて居る。其子孫も大分|界隈《かいわい》に蕃殖した。一昨年から押入婿《おしいりむこ》のデカと云う大きなポインタァ種の犬も居る。昨秋からは追うても捨《す》てゝも戻って来る、いまだ名無しの風来《ふうらい》の牝犬も居る。然し愚な鈍な弱い白が、主人夫妻にはいつまでも忘られぬのである。
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白は大正七年一月十四日の夜半病死し、赤沢君の山の上の小家の梅の木蔭に葬られました。甲州に往って十年です。村の人々が赤沢君に白のクヤミを言うたそうです。「白は人となり候」と赤沢君のたよりにありました。「白」は幸福な犬です。
大正十二年二月九日追記
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ほおずき
一
其頃は女中も居ず、門にしまりもなかった。一家《いっか》総出《そうで》の時は、大戸を鎖《さ》して、ぬれ縁の柱に郵便箱をぶら下げ、
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○○行
夕方(若くは明午○)帰る
御用の御方は北隣《きたどなり》△△氏へ御申残しあれ
小包も同断
月日 氏名
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斯く張札《はりふだ》して置いた。稀には飼犬を縁先《えんさ》きの樫の木に繋《つな》いで置くこともあったが、多くは郵便箱に留守をさした。帰って見ると、郵便箱には郵便物の外、色々な名刺や鉛筆書きが入れてあったり、主人《しゅじん》が穿《は》きふるした薩摩下駄を物数寄《ものずき》にまだ真新《まあたら》しいのに穿きかえて行《い》く人なぞもあった。ノートを引きちぎって、斯様なものを書いたのもあった。
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君を尋ねて草鞋《わらぢ》で来れば
君は在《いま》さず唯犬ばかり
縁に腰かけ大きなあくび
中で時計が五時をうつ
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明治四十一年の新嘗祭の日であった。東京から親類の子供が遊びに来たので、例の通り戸をしめ、郵便箱をぶら下げ、玉川に遊びに往った。子供等は玉川から電車で帰り、主人夫妻は連れて往った隣家の女児《むすめ》と共に、つい其前々月もらって来た三歳の女児をのせた小児車《しょうにぐるま》を押して、星光を踏みつゝ野路《のじ》を二里くたびれ果てゝ帰宅した。
隣家の女児と門口で別れて、まだ大戸も開けぬ内、二三人の足音と車の響が門口に止まった。車夫が提灯の光に、丈高い男がぬっと入って来《き》た。つゞいて女が入って来た。
「僕が滝沢です、手紙を上げて置《お》きましたが……」
其様《そん》な手紙は未だ見なかったのである。来意《らいい》を聞けば、信州の者で、一晩《ひとばん》御厄介《ごやっかい》になりたいと云うのだ。主人は疲れて大にいやであったが、遠方から来たものを、と勉強して兎に角戸をあけて内に請《しょう》じた。吉祥寺《きちじょうじ》から来たと云う車夫は、柳行李《やなぎごうり》を置いて帰った。
二
ランプの明《あか》りで見れば、男は五分刈《ごぶがり》頭の二十五六、意地張らしい顔をして居る。女は少しふけて、おとなしい顔をして、丸髷《まるまげ》に結って居る。主人が渋い顔をして居るので、丸髷の婦人は急いで風呂敷包の土産物《みやげもの》を取出し主人夫妻《しゅじんふさい》の前にならべた。葡萄液|一瓶《ひとびん》、「醗酵《はっこう》しない真の葡萄汁《ぶどうしる》です」と男が註を入れた。杏《あんず》の缶詰が二個。「此はお嬢様に」と婦人が取出《とりだ》したのは、十七八ずつも実《な》った丹波酸漿《たんばほおずき》が二本。いずれも紅《あか》いカラのまゝ虫一つ喰って居ない。「まあ見事《みごと》な」と主婦が歎美の声を放つ。「私の乳母《うば》が丹精《たんせい》して大事に大事に育てたのです」と婦人が誇《ほこ》り貌《が》に口を添えた。二つ三つ語を交《か》わす内に、男は信州、女は甲州の人で、共に耶蘇信者《やそしんじゃ》、外川先生の門弟、此度結婚して新生涯の門出に、此家の主人夫妻の生活ぶりを見に寄ったと云うことが分かった。畑の仕事でも明日《あした》は少し御手伝しましょうと男が云えば、台所の御手伝でもしましょうと女が云うた。
兎に角|飯《めし》を食うた。飯を食うとやがて男が「腹が痛い」と云い出した。「そう、余程痛みますか」と女が憂《うれ》わしそうにきく。「今日汽車の中で柿を食うた。あれが不好《いけな》かった」と男が云う。此大きな無遠慮な吾儘坊《わがままぼっ》ちゃんのお客様の為に、主婦は懐炉《かいろ》を入れてやった。大分《だいぶ》落《おち》ついたと云う。晩《おそ》くなって風呂が沸《わ》いた。まあお客様からと請《しょう》じたら、「私も一緒に御免蒙りましょう」と婦人が云って、夫婦一緒にさっさと入って了った。寝《ね》ると云っても六畳二室の家、唐紙一重に主人組《しゅじんぐみ》は此方《こち》、客は彼方《あち》と頭《あたま》突《つ》き合わせである。無い蒲団を都合《つごう》して二つ敷いてやったら、御免を蒙ってお先に寝る時、二人は床を一つにして寝てしまった。
三
明くる日、男は、「私共は二食で、朝飯《あさめし》を十時にやります。あなた方はお構《かま》いなく」と何方《どち》が主やら客やら分《わ》からぬ事を云う。其れでは十時に朝飯として、其れ迄ちと散歩でもして来ようと云って、主人は男を連れて出た。
畠仕事《はたけしごと》をして居る百姓の働き振を見ては、まるで遊んでる様ですな、と云う。彼《かれ》は生活の闘烈しい雪の山国《やまぐに》に生れ、彼自身も烈しい戦の人であった。彼は小学教員であった。耶蘇を信ずる為に、父から勘当《かんどう》同様《どうよう》の身となった。学校でも迫害を受けた。ある時、高等小学の修身科で彼は熱心に忍耐を説いて居たら、生徒の一人がつか/\立って来て、教師用の指杖《さしづえ》を取ると、突然《いきなり》劇《はげ》しく先生たる彼の背《せなか》を殴《なぐ》った。彼は徐《しずか》に顧みて何を為《す》ると問うた。其《その》生徒は杖を捨てゝ涙を流し、御免下《ごめんくだ》さい、先生があまり熱心に忍耐を御説きなさるから、先生は実際どれ程忍耐が御出来になるか試したのです、と跪《ひざまず》いて詫《わ》びた。彼は其生徒を賞《ほ》めて、辞退するのを無理に筆を三本|褒美《ほうび》にやった。
斯様な話をして帰ると、朝飯の仕度が出来て居た。落花生が炙《い》れて居る。「落花生は大好きですから、私が炙りましょう」と云うて女が炙ったのそうな。主婦は朝飯の用意をしながら、細々と女の身上話を聞いた。
女は甲州の釜無川《かまなしがわ》の西に当る、ある村の豪家の女《むすめ》であった。家では銀行などもやって居た。親類内《しんるいうち》に嫁に往ったが、弟が年若《としわか》なので、父は彼女夫妻を呼んで家《うち》の後見をさした。結婚はあまり彼女の心に染まぬものであったが、彼女はよく夫婿に仕えて、夫婦仲も好く、他目《よそめ》には模範的夫婦と見られた。良人《おっと》はやさしい人で、耶蘇《やそ》教信者で、外川先生の雑誌の読者であった。彼女はその雑誌に時々所感を寄する信州《しんしゅう》の一男子の文章を読んで、其熱烈な意気は彼女の心を撼《うご》かした。其男子は良人の友達の一人で、稀に信州から良人を訪ねて来ることがあった。何時《いつ》となく彼女と彼の間に無線電信《むせんでんしん》がかゝった。手紙の往復がはじまった。其内良人は病気になって死んだ。死ぬる前、妻《つま》に向って、自分の死後は信州の友の妻になれ、と懇々遺言して死んだ。一年程過ぎた。彼女と彼の間は、熱烈な恋となった。而して彼女の家では、父死し、弟は年若《としわか》ではあり、母が是非居てくれと引き止むるを聴かず、彼女は到頭《とうとう》家《うち》を脱け出して信州の彼が許《もと》に奔《はし》ったのである。
*
朝飯後、客の夫婦は川越の方へ行くと云うので、近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内《みちしるべ》かた/″\柳行李を負《お》わせてやることにした。
彼は尻をからげて、莫大小
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