なくてはならぬ。彼は是非なく死を覚期した。彼は生命が惜しくなった。今此処から三里|隔《へだ》てゝ居る家の妻の顔が歴々と彼の眼に見えた。彼は電光の如く自己《じこ》の生涯を省みた。其れは美《うつく》しくない半生であった。妻に対する負債《ふさい》の数々も、緋の文字《もじ》をもて書いた様に顕れた。彼は此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えた。「一人《ひとり》はとられ一人は残さるべし」と云う聖書の恐ろしい宣告が彼の頭《あたま》に閃《ひらめ》いた。彼は反抗した。然し其反抗の無益なるを知った。雷はます/\劇《はげ》しく鳴った。最早《もう》今度《こんど》は落ちた、と彼は毎々《たびたび》観念した。而して彼の心は却て落ついた。彼の心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類《しょうるい》に対する憐愍《あわれ》に満された。彼の眼鏡《めがね》は雨の故ならずして曇《くも》った。斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた。
調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。雨も小降《こぶ》りになり、やがて止んだ。暮れたと思うた日は、生白《なまじろ》い夕明《ゆうあかり》になった。調布の町では、道
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