ぬ事がいくらもあるのです。主人が馬車で帰って来ます。二階で呼鈴が鳴ると、妻が白いエプロンをかけて、麦酒《びいる》を盆にのせて持て行くのです。私は階段下に居ます。妻が傍眼《わきめ》に一寸私を見て、ずうと二階に上って行く。一時間も二時間も下りて来ぬことがあります。私は耳をすまして二階の物音を聞こうとしたり、窃《そっ》と主人の書斎の扉《どあ》の外に抜足《ぬきあし》してじいッと聴いたり、鍵《かぎ》の穴からも覗《のぞ》いて見ました。が、厚い厚い扉《どあ》です。中は寂然《ひっそり》して何を為《し》て居るか分かりません。私は実に――」
 彼は泣き声になった。一つに寄《よ》った真黒《まっくろ》い彼の眉はビリ/\動いた。唇《くちびる》は顫《ふる》えた。
「妻の眼色《めいろ》を読もうとしても、主人の貌色《かおいろ》に気をつけても、唯《ただ》疑念《ぎねん》ばかりで証拠を押えることが出来ません。斯様《こん》な処に奉公するじゃないと幾度思ったか知れません。また其様《そう》妻に云ったことも一度や二度じゃありません。けれども妻は其度に腹を立てます。斯様にお世話になりながら奥様のお留守にお暇をいたゞくなんかわたしには
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