なざるを得ました。私は真面目に畑仕事をしました。然し文筆の人に鍬のみでは足りません。大正六年の三月「死の蔭に」を出しました。大正二年の秋の逃避旅行の極めて皮相な叙述です。
すべてには限《きり》があります。「死の蔭に」が出で、父の三年の喪《も》が果てる頃から、私はそろ/\死の蔭を出ました。大正七年は私共夫妻の銀婚です。其四月、母の九十の誕辰に私は「新春」を出しました。生の福音、復活の凱歌です。春に「新春」が出て、秋の十一月十一日に、さしも五年に渉《わた》って世界を荒らした大戦がばったり止んだのであります。
世界が死の蔭を出て、大戦後始末の会議が※[#濁点付き片仮名「ヱ」、1−7−84]ルサイユに開かれた大正八年一月私共夫妻は粕谷を出でて世界一周の旅に上りました。旅費の前半は「新春」の読者、後半は後《あと》で出た「日本から日本へ」の読者から出たのであります。新嘉坡《シンガポオル》まで往った時、私の母が東京で九十一歳で死にました。父を捨てた子は、母の死に目にも会いません。私共は尚《なお》西へ西へと旅をつづけ、何時しか世界を一周して、大正九年の三月日本に帰って来ました。
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