、捨てられぬ作である。
 縁の籐椅子《とういす》に腰かけて右のドラマを読んで居ると、トルストイ翁の顔やら家族の人々の顔やらが眼の前に浮ぶ。今日《きょう》は七月一日、丁度六年前ヤスナヤ、ポリヤナに居た頃である。曇《くも》ったり晴《は》れたりする空《そら》、上《のぼ》ったり下ったりする丘《おか》、緑が茂って、小麦が熟《う》れて、余の今の周囲も其時に似《に》て居る。
 最早はっきりとは文字の見えぬ本を膝《ひざ》にのせて、先刻《さっき》から音もなく降って居た繊《ほそ》い雨の其まゝ融《と》けた蒼《あお》い夕靄《ゆうもや》を眺めて居ると、忽ち向うの蒼い杉の森から、
「リン、――リン、リン」
 白銀《はくぎん》の鈴《りん》を振る様な鋭い蜩《ひぐらし》の音が響いた。
[#地から3字上げ](明治四十五年 七月一日)
[#改ページ]

     夏の一日

 眼をさますと、真裸《まっぱだか》で寝て居る。外では最早|蜩《ひぐらし》が鳴いて居る。蚊帳外《かやそと》の暗い隅では、蚊が※[#「口+云」、第3水準1−14−87]々《うんうん》唸《うな》って居る。刎《は》ね起きて時計を見れば、五時に十分前。戸をくると
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