》もせぬ。心《しん》をとめるものは心をとめ、肥料のやり時、中耕の加減《かげん》も、兎やら角やら先生なしにやって行ける。毎年|儂《わし》は蔬菜《そさい》花卉《かき》の種《たね》を何円《なんえん》と云う程買う。無論其れ程の地積《ちせき》がある訳《わけ》でも必要がある訳でも無いが、種苗店の目録を見て居るとつい買いたくなって買うのだ。蒔《ま》いてしまうのも中々骨だから、育《そだ》ったら事だが、幸か不幸か種の大部分は地に入《はい》って消えて了う。其度毎《そのたびごと》に種苗店の不徳義、種子の劣悪《れつあく》を罵《ののし》るが、春秋の季節になると、また目録をくって注文をはじめる。馬鹿な事さ。然し儂等は趣味空想に生きて、必しも結果《けっか》には活きぬ。馬鹿な事をしなくなったら、儂が最後だ。
時の経《た》つは速いものだ。越《こ》した年の秋実を蒔いた茶が、去年あたりから摘《つ》め、今年は新茶が可なり出来た。砂利を敷いたり剪枝をしたり苦心の結果、水蜜桃も去年あたりから大分喰える。苺《いちご》は毎年移してばかり居たが、今年は毎日|喫飽《くいあき》をした上に、苺のシイロップが二|合瓶《ごうびん》二十余出来た
前へ
次へ
全684ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング