一つ。床には小杉《こすぎ》榲邨《おんそん》の「淡きもの味はへよとの親こゝろ共にしのびて昔かたらふ」と書いた幅を掛けてある。翁は今日も余等が寝て居る内に、山から引いた氷の様な水を浴び、香を焼《た》いて神明に祈り、机の前に端座《たんざ》して老子を読んだのである。老子は翁の心読書、其についでは創世記、詩篇、約百記《ヨブき》なぞも愛読書目の中にある。アブラハム、ヤコブなぞ遊牧族《ゆうぼくぞく》の老酋長の物語は、十勝の山中に牛馬と住む己《わ》が境涯に引くらべて、殊に興味が深いのであろう。
落《おち》つけよとの雨が終日降りくらす。翁の室と板廊下一つ隔てた街道側の八畳にくつろいで居ると、翁は菓子、野葡萄、玉蜀黍、何くれと持て来ては鶴子にも余等にも与え、小さな炉を中に、黒い毛繻子の前掛の膝をきちんと座って、さま/″\の話をする。昔からタヾの医者でなかった翁の所謂灌水は単に身体の冷水浴をのみ意味せぬ如く、治術も頗活機に富んだもので、薬でなくてはならぬときめこんだ衆生の為に、徳島に居た頃は不及飲《ふぎゅういん》と云う水薬を調合し、今も待効丸と云う丸薬を与えるが、其れが不思議によく利《き》くそうだ。然し翁
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