しばかりの田畑《たはた》を有って居たが、其土は銭に化けて追々《おいおい》消えてしまい、日露戦争終る頃は、最早|一撮《ひとつまみ》の土も彼の手には残って居なかった。そこで草葺の家と一反の土とは、新に之を求めねばならぬのであった。
彼が二歳から中二年を除いて十八の春まで育った家は、即ち草葺の家であった。明治の初年薩摩境に近い肥後《ひご》の南端の漁村から熊本の郊外に越した時、父が求めた古家で、あとでは瓦葺《かわらぶき》の一棟が建増されたが、母屋《おもや》は久しく茅葺であった。其茅葺をつたう春雨の雫《しずく》の様に、昔《むかし》のなつかし味が彼の頭脳に滲《し》みて居たのである。彼の家は加藤家の浪人の血をひいた軽い士の末《すえ》で、代々田舎の惣庄屋をして居て、農には元来縁浅からぬ家である。彼も十四五の頃には、僕に連れられ小作米取立の検分に出かけ、小作の家で飯を強いられたり無理に濁酒の盃をさゝれたりして困った事もあった。彼の父は地方官吏をやめて後、県会議員や郷先生《ごうせんせい》をする傍、殖産興業の率先をすると謂って、女《むすめ》を製糸場の模範工女にしたり、自家《じか》でも養蚕《ようさん》製糸《
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