て居る。メェフラワァは故国との最後の連鎖《れんさ》である。メェフラワァの去ると共に故国の縁《えん》は切れるのである。なつかしい過去、旧世界、故国、歴史、一切の記念、其等との連鎖は、彼《かの》船脚《ふなあし》の一歩※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]に切れて行くのである。彼等の胸は痛み、眼には涙が宿って居るに違いない。然しながら彼等は若い。彼等は新しい大陸に足を立てゝ居る。彼等の過去は、彼船と共に夢と消ゆる共、彼等の現在は荒寥《こうりょう》であるとも、彼等は洋々《ようよう》たる未来を代表して居る。彼等は新世界のアダム、イヴである。
此の画を見る毎《たび》に、彼はお馨《けい》さんと其恋人|葛城《かつらぎ》勝郎《かつお》を憶《おも》い出さぬことは無い。
三
葛城は九州の士の家の三男に生れた。海軍機関学校に居る頃から、彼は外川先生に私淑《ししゅく》して基督を信じ、他の進級、出世、肉の快楽《けらく》にあこがるゝ同窓青年の中にありて、彼は祈祷《きとう》し、断食《だんじき》し、読書し、瞑想《めいそう》する青年であった。日露戦争に機関少尉として出陣した彼は、戦争が終ると共に海軍を見限って、哲学文学を以て身を立つる可く決心した。寡婦《かふ》として彼を育て上げた彼の母、彼の姉、彼の二兄、家族の者は皆彼が海軍を見捨つることに反対した。唯一人|満腔《まんこう》の同情を彼に寄せた人があった。其れは其頃彼の母の家に寄寓《きぐう》して居る女学生であった。女学生の名はお馨さんと云った。
お馨さんは、上総《かずさ》の九十九里の海の音が暴風《しけ》の日には遠雷の様に聞ゆる或村の小山の懐《ふところ》にある家の娘であった。四人の兄、一人の姉、五人の妹を彼女は有《も》って居た。郷里の小学を終えて、出京して三輪田女学校を卒《お》え、更に英語を学ぶべく彼女はある縁によって葛城の母の家に寄寓《きぐう》して青山女学院に通って居た。彼女も又外川先生の門弟で、日曜毎に隅の方に黙って聖書の講義を聴いて居た。富裕な家の女に生れて、彼女は社会主義に同情を有って居た。葛城が軍艦から母の家に帰って来る毎に、彼は彼女と談話《だんわ》を交えた。信仰を同じくし、師を同じくし、同じ理想を趁《お》う二人は多くの点に於て一致を見出した。彼女は若い海軍士官が軍籍を脱することについて家族総反対の中に唯一人の賛成者であった。斯くて二人は自然に相思《そうし》の中となった。二人は時に青山から玉川まで歩いて行く/\語り、玉川の磧《かわら》の人無き所に跪《ひざまず》いて、流水の音を聞きつゝ共に祈った。身は雪の如く、心は火の如く、二人の恋は美しいものであった。
四
本文の筆を執る彼は、明治三十九年の正月、逗子《ずし》の父母の家で初めて葛城に会った。恰も自家の生涯に一革命を閲《けみ》した時である。間もなく彼は上州の山に籠《こも》る。ついで露西亜に行く。外国から帰った時は、葛城は已に海軍を退いて京都の大学に居た。
明治四十年の初春、此文の筆者は東京から野に移り住んだ。八重桜も散り方になり、武蔵野の雑木林が薄緑《うすみどり》に煙る頃、葛城は渡米の暇乞《いとまごい》に来た。一夜泊って明くる日、村はずれで別れたが、中数日を置いて更に葛城を見送る可く彼は横浜に往った。港外のモンゴリヤ号は已に錨《いかり》を抜かんとして、見送りに来た葛城の姉もお馨《けい》さんもとくに去り、葛城独甲板の欄《らん》に倚《よ》って居た。時間が無いので匆々《そこそこ》に別を告げた。此時初めて葛城はお馨さんの事を云うた。ゆく/\世話になろうと思うて居ると云うた。而《そう》して今後度々上る様に云って置いたから宜しく頼む、と云うた。斯くて葛城は亜米利加に渡った。
其年夏休前にお馨さんは初めて粕谷に来た。美しいと云う顔立《かおだち》では無いが、色白の、微塵《みじん》色気も鄙気《いやしげ》も無いすっきりした娘で、服装《みなり》も質素であった。其頃は女子英学塾に寄宿して居たが、後には外川先生の家に移った。粕谷に遊びに往ったと云うてやると、米国から大層喜んでよこす、と云ってよく遊びに来た。今日は学校から玉川遠足をしますから、私は此方《こちら》へ上りました、と云って朝飯前に来た事もあった。体質極めて強健で、病気と云うものを知らぬと云って居た。新宿から三里、大抵足駄をはいて歩いた。日がえりに往復することもあった。彼女は女中も居ぬ家の不自由を知って居るので、来る時に何時も襷《たすき》を袂《たもと》に入れて来た。而して台所の事、拭掃除《ふきそうじ》、何くれとなく妻を手伝うた。家の事情、学校の不平、前途の喜憂、何も打明けて語り、慰められて帰った。妻は次第に彼女を妹の如く愛した。
葛城は新英州《ニューイングラ
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