ンド》の大学で神学を修めて居た。欧米大陸の波瀾万丈|沸《に》えかえる様な思潮に心魂を震蕩《しんとう》された葛城は、非常の動揺と而して苦悶《くもん》を感じ、大服従のあと大自由に向ってあこがれた。彼が故国の情人に寄する手紙は、其心中の千波万波を漲《みなぎ》らして、一回は一回より激烈なるものとなった。彼はイブセンを読む可く彼女に書き送った。彼女を頭が固《かた》いと罵ったりした。而して彼女をも同じ波瀾に捲き込むべく努めた。斯等の手紙が初心《うぶ》な彼女を震駭《しんがい》憂悶《ゆうもん》せしめた状《さま》は、傍眼《わきめ》にも気の毒であった。彼女は従順にイブセンを読んだ。ツルゲーネフも読んだ。然し彼女は葛城が堕落に向いつゝあるものと考えた。何ともして葛城を救わねばならぬと身を藻掻《もが》いた。彼女は立っても居ても居られなくなった。而して自身亜米利加に渡って葛城を救わねばならぬと覚期《かくご》した。
 粕谷《かすや》の夫妻は彼女を慰めて、葛城が此等の動揺は当《まさ》に来る可き醗酵《はっこう》で、少しも懸念す可きでないと諭《さと》した。然しお馨《けい》さんの渡米には、二念なく賛同した。彼葛城の為にも、彼女自身の鍛錬《たんれん》の為にも、至極好い思立《おもいたち》と看《み》たのである。彼女は葛城の渡米当時已に自身も渡米す可く身を悶《もだ》えたが、父の反対によって是非なく思い止まったのであった。
 米国からは、あまり乗気でもないが、来るなら紐育《ニューヨーク》ブルックリンの看護婦学校に口があると知らして来た。彼女の師外川先生も、自身|新英蘭《ニューイングランド》で一時|白痴院《はくちいん》の看護手をしたことがあると云うて、彼女の渡米に賛同した。お馨さんは母の愛女であった。母は愛女の為に其望を遂げさすべく骨折る事を諾《だく》した。彼女の長兄は、其母を悦ばす可く陰に陽に骨折る事を妹に約した。残る所は彼女の父の承諾だけであった。彼女の父は田舎の平相国《へいしょうこく》清盛《きよもり》として、其小帝国内に猛威を振うている。彼女と葛城の縁談《えんだん》も、中に立って色々骨折る人があったが、彼女の父は断じて許さなかった。葛城の人物よりも其無資産を慮《おもんぱか》ったのである。葛城の母、兄姉も皆お馨さんの渡米には不賛成であった。葛城の勉強の邪魔になると謂うた。静かにこゝで勉強して葛城の帰朝を待てと勧めた。然しお馨さんは如何しても思い止まることが出来なかった。それに、日本に愚図々々《ぐずぐず》して居れば、心に染《そ》まぬ結婚を父に強《し》いられる恐れがあった。
 斯様な事情と彼女の切なる心情を見聞する粕谷の夫妻は、打捨てゝ置く訳に行かなかった。葛城が家族の反対に関せず、何を措いても彼女の父の結婚及渡米の許諾を獲べく、単刀直入|桶狭間《おけはざま》の本陣に斬込まねばならぬと考えた。

       五

 朧月《おぼろづき》の夜、葛城家の使者と偽《いつわ》る彼は、房総線《ぼうそうせん》の一駅で下りて、車に乗ってお馨さんの家に往った。長い田舎町をぬけて、田圃《たんぼ》沿いの街道を小一里も行って、田中路を小山の中に入って、其山ふところの行止《ゆきどま》りが其家であった。大きな長屋門の傍の潜《くぐ》りを入って、勝手口から名刺を出した。色の褪《さ》めた黒紋付の羽織を着た素足《すあし》の大きな六十爺さんが出て来た。お馨さんの父者人《ててじゃひと》であった。
 其夜は烈しい風雨であった。十二畳の座敷に寝かされた彼は、夢を結び得なかった。明くる早々起きて雨戸をあけて見た。庭には大きな泉水を掘り、向うの小山を其まゝ庭にして、蘇鉄《そてつ》を植えたり、石段を甃《たた》んだり、石燈籠を据えたりしてある。下駄突かけて、裏の方に廻って見ると、小山の裾《すそ》を鬼の窟《いわや》の如く刳《く》りぬいた物置がある。家は茅葺《かやぶき》ながら岩畳《がんじょう》な構えで、一切の模様が岩倉《いわくら》と云う其姓にふさわしい。まだ可なり吹き降《ぶ》りの中を、お馨さんによく似《に》た十四五、十一二の少女が、片手に足駄を提《さ》げ、頭から肩掛《しょうる》をかぶり、跣足《はだし》で小学校に出かけて行く。座敷に帰って、昼の光であらためて主翁《しゅおう》と対面した。住居にふさわしい岩畳なかっぷくである。左の目が眇《すがめ》かと思うたら、其れは眼の皮がたるんでいるのであった。其れが一見人を馬鹿にした様に見える。芳野金陵の門人で、漢学の素養がある。其父なる人は、灌漑用の潴水池《ちょすいち》を設けて、四辺《あたり》に恩沢を施して居る。お馨さんの父者人は、十六にして父に死なれ、一代にして巨万の富をなした。六十爺の今日も、名ある博士の弁護士などを顧問に、万事自身で切って廻わして居る。此辺は数名の博士、数十名の学士を出し
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