那は外にお職がおありなすって、お銭《あし》は土用干なさる程おありなさるから、と。一度百円札の土用干でもしたいものと思うが、兎に角外にお職がおあんなさる事は、彼自身|欺《あざむ》く事が出来ぬ。彼は一度だって農事講習会に出たことは無い。
 美的百姓の家は、東京から唯三里。東の方を望むと、目黒の火薬製造所や渋谷発電所の煙が見える。風向きでは午砲《どん》も聞こえる。東京の午砲を聞いたあとで、直ぐ横浜の午砲を聞く。闇い夜は、東京の空も横浜の空も、火光《あかり》が紅《あか》く空に反射して見える。東南は都会の風が吹く。北は武蔵野である。西は武相それから甲州の山が見える。西北は野の風、山の風が吹く。彼の書院は東京に向いて居る。彼の母屋《おもや》の座敷は横浜に向いて居る。彼の好んで読書し文章を書く廊下の硝子窓は、甲州の山に向うて居る。彼の気は彼の住居《すまい》の方向の如く、彼方《あっち》にも牽《ひ》かれ、此方にも牽かれる。
 彼は昔耶蘇教伝道師見習の真似をした。英語読本の教師の真似もした。新聞雑誌記者の真似もした。漁師の真似もした。今は百姓の真似をして居る。
 真似は到底本物で無い。彼は終に美的百姓である。
[#改丁]

   過去帳から

     墓守
     
       一

 彼は粕谷《かすや》の墓守《はかもり》である。
 彼が家の一番近い隣は墓場である。門から唯三十歩、南へ下ると最早墓地だ。誰が命じたのでもない、誰に頼まれたのでもないが、家の位置が彼を粕谷の墓守にした。
 墓守と云って、別に墓掃除するでもない。然し家が近くて便利なので、春秋の彼岸に墓参に来る者が、線香の火を借りに寄ったり、水を汲みに寄ったりする。彼の庭園には多少の草花を栽培《さいばい》して置く。花の盛季《さかり》は、大抵農繁の季節に相当するので、悠々《ゆうゆう》と花見の案内する気にもなれず、無論見に来る者も無い。然し村内に不幸があった場合には、必庭園の花を折って弔儀《ちょうぎ》に行く。少し念を入れる場合には、花環《はなわ》などを拵《こさ》えて行く。
 墓守のついでに、墓場を奇麗にして、花でも植えて置こうかと思うが、それでは皆が墓参に自家の花を手折って来ても引立たなくなる。平生《ふだん》草を茂《しげ》らして、春秋の彼岸や盆に墓掃除に来るのも、農家らしくてよい。墓地があまりにキチンとして居るのも、好悪《よしあし》である。と思うので、一向構わずに置く。然し整理熱は田舎に及び、彼の村人も墓地を拡張整頓するそうで、此程|周囲《まわり》の雑木を切り倒し、共有の小杉林を拓《ひら》いてしもうた。いまに※[#「木+要」、第4水準2−15−13]《かなめ》の生牆《いけがき》を遶《めぐ》らし、桜でも植えて奇麗にすると云うて居る。惜しい事だ。

       二

 彼は墓地が好きである。東京に居た頃は、よく青山墓地へ本を読みに夢を見に往った。粕谷の墓地近くに卜居した時、墓が近くて御気味が悪うございましょうと村人が挨拶したが、彼は滅多な活人の隣より墓地を隣に持つことが寧嬉しかった。誰も胸の中に可なり沢山の墓を有って居る。眼にこそ見えね、我等は夥しい幽霊の中に住んで居る。否、我等自身が誰かの幽霊かも知れぬ。何も墓地を気味悪がるにも当らない。
 墓地は約一反余、東西に長く、背《うしろ》は雑木林、南は細い里道から一段低い畑田圃。入口は西にあって、墓は※[横線に長い縦線四本の記号、上巻−241−12]形に並んで居る。古い処で寛文元禄位。銀閣寺義政時代の宝徳のが唯一つあるが、此は今一つはりがねで結わえた二つに破れた秩父青石の板碑と共に、他所《よそ》から持って来たのである。以前小さな閻魔堂《えんまどう》があったが、乞食の焚火から焼けてしまい、今は唯石刻の奪衣婆ばかり片膝立てゝ凄い顔をして居る。頬杖《ほおづえ》をついて居る幾基の静思菩薩《せいしぼさつ》、一隅にずらりと並んだにこ/\顔の六地蔵《ろくじぞう》や、春秋の彼岸に紅いべゝを子を亡くした親が着せまつる子育《こそだて》地蔵、其等《それら》が「長十山、三国の峰の松風吹きはらふ国土にまぢる松風の音」だの、上に梵字《ぼんじ》を書いて「爰追福者為蛇虫之霊発菩提也《ここについふくするものはだちゅうのれいぼだいをはっせんがためなり》」だのと書いた古い新しいさま/″\の卒塔婆と共に、寂《さび》しい賑やかさを作って居る。植えた木には、樒《しきみ》や寒中から咲く赤椿など。百年以上の百日紅《さるすべり》があったのは、村の飲代《のみしろ》に植木屋に売られ、植木屋から粕谷の墓守に売られた。余は在来の雑木である。春はすみれ、蒲公英《たんぽぽ》が何時の間にか黙って咲いて居る。夏は白い山百合が香る。蛇が墓石の間を縫うてのたくる。秋には自然生の秋明菊《しゅうめいぎく》が咲く。冬
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