うっちゃっておけやい、若ェ者だもの、些《ちった》ァ虫《むし》もつくべいや。此は此爺さんのズボラ哲学である。差別派からは感心は出来ぬが、中に大なる信仰と真理がある。
甲吉が嬶《かか》をもらう。其は隣村の女で、奉公して居る内主人の子を生んだのだと云う。乙太郎の女が嫁に行く。其は乙の妻が東京から腹の中に入れて来たおみやげの女だ。東京の糞尿と共に、此辺はよく東京のあらゆる下《お》り物を頂戴する。すべての意味に於ての不浄取りをするのだ。此辺の村でも、風儀は決して悪くない。甲州街道から十丁とは離れて居ぬが、街道筋の其れと比べては、村は堅いと云ってよい。男女の間も左程に紊《みだ》れては居らぬ。然し他の不始末に対しては概して大目である。だから疵物《きずもの》でもずん/\片づいて行く。尤も疵物は大抵貧しい者にやられる。潔癖は贅沢だ。貧しい者は、其様な素生調《すじょうしらべ》に頓着しては居られぬ。金の二三十両もつければ、懐胎《かいたい》の女でももらう。もと誰の畑であっても、自分のものになればさっさと種《たね》を蒔《ま》く。先《せん》の蒔き残りのものがあっても、仔細なしに自分のにして了う。種を蒔くに必しも Virgin Soil を要しない。要するに東京の尻を田舎が拭《ぬぐ》う。田舎でも金もちが吾儘をして、貧しい者が後尻《あとしり》を拭うにきまって居る。何処までも不浄取りが貧しい農の運命である。
神は一大農夫である。彼は一切の汚穢《おかい》を捨てず、之を摂取し、之を利用する。神程|吝嗇爺《けちおやじ》は無い。而して神程|太腹《ふとっぱら》の爺も無い。彼に於ては、一切の不潔は、生命を造る原料である。所謂不垢不浄、「神の潔めたるものを爾|浄《きよ》からずとするなかれ」一切のものは土に入りて浄まる。自然は一大浄化場である。自《おのずか》ら神心に叶う農の不浄観について、我等は学ぶ所なくてはならぬ。
生命は共通である。潔癖は吾儘者の鄙吝《けち》な高慢である。
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美的百姓
彼は美的百姓である。彼の百姓は趣味の百姓で、生活の百姓では無い。然し趣味に生活する者の趣味の為の仕事だから、生活の為と云うてもよい。
北米の大説教家ビーチアル[#「ビーチアル」に傍線]は、曾て数塊の馬鈴薯を人に饗《きょう》して曰くだ、此は吾輩の手作だ、而して一塊一|弗《ドル》はかゝって居るのだ、折角食ってくれ玉えと。美的百姓は憚りながらビーチアル[#「ビーチアル」に傍線]先生よりも上手だ。然し何事にも不熱心の彼には、到底|那須野《なすの》に稗《ひえ》を作った乃木さん程の上手な百姓は出来ぬ。川柳氏歌うて曰く、釣れますか、などと文王|傍《そば》へ寄り、と。美的百姓先生の百姓も、太公望の釣位なものだ。太公望は文王を釣り出した。美的百姓は趣味を掘り出さんとして手に豆をこさえる。
百姓として彼は終に落第である。彼は三升の蕎麦《そば》を蒔《ま》いて、二升の蕎麦を穫《え》たことがある。彼が蒔く種子は、不思議に地に入って雪の如く消えて了う。彼が作る菜《な》は多く苦《にが》い。彼が水瓜は九月彼岸前にならなければ食われない。彼が大根は二股三股はまだしも、正月の注連飾《しめかざり》の様に螺旋状《らせんじょう》にひねくれ絡《から》み合うたのや、章魚《たこ》の様な不思議なものを造る。彼の文章は格に入らぬが、彼の作る大根は往々芸術の三昧に入って居る。
彼は仕事着にはだし足袋、戦争《いくさ》にでも行く様な意気込みで、甲斐々々しく畑に出る。少し働いて、大に汗を流す。鍬柄《くわづか》ついて畑の中に突立《つった》った時は、天も見ろ、地も見ろ、人も見てくれ、吾れながら天晴見事の百姓振りだ。額の汗を拭きもあえずほうと一息《ひといき》入れる。曇った空から冷やりと来て風が額を撫でる。此処《ここ》が千両だ、と大きな眼を細くして彼は悦《えつ》に入る。向うの畑で、本物の百姓が長柄の鍬で、後退《あとしざ》りにサクを切るのを熟々《つくづく》眺めて、彼運動に現わるゝリズムが何とも云えぬ、と賞翫する。小雨ほと/\雲雀《ひばり》の歌まじり、眼もさむる緑の麦畑に紅帯《あかおび》の娘が白手拭を冠って静に働いて居るを見ては、歌か句にならぬものか、と色彩《いろ》故に苦労する。彼自身肥桶でも担《かつ》いで居る時、正銘の百姓が通りかゝれば、彼は得意である。農家のおかみに「お上手ですねえ」とお世辞《せじ》でも云われると、彼は頗る得意である。労働最中に美装《びそう》した都人士女の訪問でも受けると、彼はます/\得意である。
稀に来る都人士には、彼の甲斐々々しい百姓姿を見て、一廉《いっかど》其道の巧者《こうしゃ》になったと思う者もあろう。村の者は最早《もう》彼の正体《しょうたい》を看破して居る。田圃向うのお琴婆さんの曰くだ、旦
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