声を聞いた。其《それ》は権高《けんだか》な御後室様の怒声よりも、焦《じ》れた子供の頼無《たよりな》げな恨めしげな苦情声《くじょうごえ》であった。大君の御膝下《おひざもと》、日本の中枢《ちゅうすう》と威張る東京人も、子供の様に尿屎《ししばば》のあと始末をしてもらうので、田舎の保姆《ばあや》の来ようが遅いと、斯様に困ってじれ給うのである。叱られた百姓は黙って其|糞尿《ふんにょう》を掃除《そうじ》して、それを肥料に穀物蔬菜を作っては、また東京に持って往って東京人を養う。不浄を以て浄を作り、廃物を以て生命を造る。「吾父は農夫なり」と神の愛子は云ったが、実際神は一大農夫で、百姓は其|型《かた》を無意識にやって居るのである。
衆議院議員の選挙権位は有って居る家の息子や主人《あるじ》が掃除に行く。東京を笠に被て、二百万の御威光で叱りつくる長屋のかみさんなど、掃除人《そうじにん》の家に往ったら、土蔵の二戸前もあって、喫驚《びっくり》する様な立派な住居に魂消《たまげ》ることであろう。斯く云う彼も、東京住居中は、昼飯時《ひるめしどき》に掃除に来たと云っては叱り、門前に肥桶《こえおけ》を並べたと云っては怒鳴《どな》ったりしたものだ。園芸を好んだので、糞尿《ふんにょう》を格別忌むでも賤《いやし》むでもなかったが、不浄取りの人達を糞尿をとってもらう以外没交渉の輩《やから》として居た。来て其人達の中に住めば、此処《ここ》も嬉《うれ》し哀《かな》しい人生である。息子を兵役にとられ、五十越した与右衛門さんが、甲州街道を汗水|滴《た》らして肥車を挽くのを見ると、仮令《たとい》其れが名高い吾儘者の与右衛門さんでも、心から気の毒にならずには居られぬ。而《そう》して此頃では、むッといきれの立つ堆肥《たいひ》の小山や、肥溜《こえだめ》一ぱいに堆《うずたか》く膨《ふく》れ上る青黒い下肥を見ると、彼は其処に千町田《ちまちだ》の垂穂《たりほ》を眺むる心地して、快然と豊かな気もちになるのである。
下
「新宿のねェよ、女郎屋《じょうろうや》でさァ、女郎屋に掃除《そうじ》を取りに行く時ねェよ、饂飩粉《うどんこ》なんか持ってってやると、そりゃ喜ぶよ」
辰爺さんは斯《こ》う云うた。
同じ糞《くそ》でも、病院の糞だの、女郎屋の糞だのと云うと、余計に汚ない様に思う。
不潔を扱うと、不潔が次第に不潔でなくなる。葛西《かさい》の肥料屋《こやしや》では、肥桶《こえおけ》にぐっと腕《うで》を突込み、べたりと糞のつくとつかぬで下肥《しもごえ》の濃薄《こいうすい》従って良否を験するそうだ。此辺でも、基肥《もとごえ》を置く時は、下肥を堆肥に交ぜてぐちゃ/\したやつを盛《も》った肥桶を頸《くび》からつるし、後ざまに畝《うね》を歩みつゝ、一足毎に片手に掴《つか》み出してはやり、掴み出してはやりする。或は更に稀薄《きはく》にしたのを、剥椀《はげわん》で抄《すく》うてはざぶり/\水田にくれる。時々は眼鼻に糞汁《ふんじゅう》がかゝる。
「あっ、糞が眼《め》ン中《なけ》へ入《はい》っちゃった」と若いのが云う。
「其れが本当の眼糞《めくそ》だァ」爺《おやじ》は平然たるものだ。
平然たる爺が、ある時三四歳の男の子を連れて遊びに来た。誰のかと云えば、お春のだと云う。お春さんは爺さんの娘分《むすめぶん》になって居る若い女だ。
「お春が拾って来たんでさァ」と爺《じい》さんがにや/\笑いながら曰うた。
「拾って来た? 何処《どこ》で?」
野暮《やぼ》先生正に何処かで捨子を拾って来たのだと思うた。爺は唯にや/\笑って居た。其《それ》は私生児であった。お春さんの私生児であった。
お春さん自身が東京芸者の私生児であった。里子からずる/\に爺さんの娘分になり、近所に奉公に出て居る内に、丁度母の芸者が彼女を生んだ十六の年に、彼女も私生児を生んだ。歴史は繰《く》り返えす。細胞の記憶も執拗《しつよう》なものである。十六の母は其私生児を負《おぶ》って、平気に人だかりの場所へ出た。無頓着な田舎でも、「ありゃ如何《どう》したンだんべ?」と眼を円《まる》くして笑った。然し女に廃物《すたり》は無い。お春さんは他の東京から貰《もら》われて来た里子の果《はて》の男と出来合うて、其私生児を残して嫁に往った。而して二人は今幸福に暮らして居る。
ある爺さんのおかみは、昔若かった時一度亭主を捨てゝ情夫と逃げた。然し帰って来ると、爺さんは四の五の云わずに依然かみさんの座《ざ》に坐《すわ》らした。太公望《たいこうぼう》の如く意地悪ではなかった。夫婦に娘が出来て、年頃になった。其娘が出入の若い大工と物置の中に潜《ひそ》む日があった。昔男と道行の経験があるおかみは頻《しきり》と之を気にして、裏口から娘の名を呼び/\した。爺さんの曰く、
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