を羞《は》じ凋《しぼ》ます荘厳《そうごん》偉麗《いれい》の色彩を天空に輝《かがや》かしたり、諒闇《りょうあん》の黒布を瞬く間に全天に覆《おお》うたり、摩天《まてん》の白銅塔《はくどうとう》を見る間に築き上げては奈翁《なぽれおん》の雄図よりも早く微塵《みじん》に打崩したり、日々眼を新にする雲の幻術《げんじゅつ》天象《てんしょう》の変化を、出て見るも好い。
四辺《あたり》が寂《さび》しいので、色々な物音が耳に響く。鄙《ひな》びて長閑《のどか》な鶏の声。あらゆる鳥の音。子供の麦笛《むぎぶえ》。うなりをうって吹く二百十日の風。音《おと》なくして声ある春の雨。音なく声なき雪の緘黙《しじま》。単調な雷の様で聞く耳に嬉しい籾摺《もみず》りの響《おと》。凱旋の爆竹《ばくちく》を聞く様な麦うちの響。秋祭りの笛太鼓。月夜の若い者の歌。子供の喜ぶ飴屋《あめや》の笛。降るかと思うと忽ち止む時雨《しぐれ》のさゝやき。東京の午砲《どん》につゞいて横浜の午砲。湿《しめ》った日の電車汽車の響《ひびき》。稀に聞く工場の汽笛。夜は北から響く烏山の水車。隣家《となり》で井汲《いどく》む音。向うの街道を通る行軍兵士の靴音《くつおと》や砲車の響。小学校の唱歌。一丁はなれた隣家の柱時計が聞こゆる日もある。一番好いのは、春四月の末、隣の若葉した雑木林に朝日が射す時、ぽたり……ぽたりと若葉を辷《すべ》る露の滴《したた》りを聴くのである。
夏秋の虫の音の外に、一番嬉しいのは寺の鐘《かね》。真言宗の安穏寺《あんのんじ》。其れはずッと西南へ寄って、寺は見えぬが、鐘の音《ね》は聞こえる。東覚院《とうがくいん》、これも真言宗、つい向うの廻沢《めぐりさわ》にあって、寺は見えぬが、鐘の音は一番近い。尤も東にあるのが船橋の宝性寺《ほうしょうじ》、日蓮宗で、其草葺の屋根と大きな目じるしの橡《とち》の木は、小さく彼の縁から指さゝれる。
大木は地の栄《さかえ》である。彼の周囲に千年の古木《こぼく》は無い。甲州の山鏈《さんれん》を突破する二本松と、豪農の杉の森の外、木らしい木は、北の方三丁ばかり畑を隔《へだ》てゝ欅《けやき》の杜《もり》の大欅が亭々と天を摩して聳《そび》えて居る。其若葉は此あたりで春の目じるし、其|鳶色《とびいろ》は秋も深い目じるしである。北の方は、此欅の中の欅と下枝を払った数本のはら/\松を点景にして、林から畑、畑から村と、遠く武蔵野につゞいて居る。
六
家の門口は東にある。出ると直ぐ雑木林。彼の有《もの》ではないが、千金|啻《ただ》ならず彼に愛される。彼が家の背《うしろ》に、三角形をなす小さな櫟林《くぬぎばやし》と共に、春夏の際は若葉青葉の隧道《とんねる》を造る。青空から降る雨の様に落葉《おちば》する頃は、人の往来《ゆきき》の足音が耳に立つ。蛇の巣《す》でもあるが、春は香の好いツボスミレ、金蘭銀蘭、エゴ、ヨツドヽメ、夏は白百合、撫子花、日おうぎ、秋は萩、女郎花、地楡《われもこう》、竜胆《りんどう》などが取々《とりどり》に咲く。ヨツドヽメの実も紅《くれない》の玉を綴《つづ》る。楢茸《ならたけ》、湿地茸《しめじだけ》も少しは立つ。秋はさながらの虫籠《むしかご》で、松虫鈴虫の好い音《ね》はないが、轡虫《くつわむし》などは喧しい程で、ともすれば家の中まで舞い込んでわめき立てる。今は無くなったが、先年まで其林の南、墓地の東隣に家があって、十五六の唖の兄と十二三になる盲の弟が、兄が提灯《ちょうちん》つけて見る眼を働かすれば、弟《おとうと》が聞く耳を立てゝ虫の音を指し、不具二人寄って一人前の虫採《むしとり》をしたものだ。最早《もう》其家はつぶれ、弟は東京で一人前の按摩《あんま》になり、兄は本家に引取られて居るが、虫は秋毎に依然として鳴いて居る。家がさながら虫の音に溺《おぼ》れる様な宵《よい》がある。
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[#201ページ、地蔵尊の写真]
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大正十二年九月一日の大震に倒れただけで無事だった地蔵尊が、大正十三年一月十五日の中震に二たび倒れて無惨や頭が落ちました。私共の身代りになったようなものです。身代り地蔵と命名して、倒れたまま置くことにしました。
大正十三年 春彼岸の中日
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ひとりごと
地蔵尊
地蔵様が欲しいと云ってたら、甲州街道の植木なぞ扱う男が、荷車にのせて来て、庭の三本松の蔭《かげ》に南向きに据《す》えてくれた。八王子の在《ざい》、高尾山下浅川附近の古い由緒《ゆいしょ》ある農家の墓地から買って来た六地蔵の一体だと云う。眼を半眼に開いて、合掌《がっしょう》してござる。近頃出来の頭の小さい軽薄な地蔵に比すれば、頭が余程大きく、曲眉《き
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