ょくび》豊頬《ほうきょう》ゆったりとした柔和《にゅうわ》の相好《そうごう》、少しも近代生活の齷齪《あくせく》したさまがなく、大分ふるいものと見えて日苔《ひごけ》が真白について居る。惜しいことには、鼻の一部と唇の一部にホンの少しばかり欠《か》けがあるが、情《なさけ》の中に何処か可笑味《おかしみ》を添えて、却て趣をなすと云わば云われる。台石の横側に、○永四歳(丁亥)十月二日と彫ってある。最初|一瞥《いちべつ》して寛永と見たが、見直すと寿永《じゅえい》に見えた。寿永では古い、平家没落の頃だ。寿永だ、寿永だ、寿永にして措け、と寿永で納まって居ると、ある時|好古癖《こうこへき》の甥が来て寿永じゃありません宝永ですと云うた。云われて見ると成程宝永だ。暦を繰ると、干支《えと》も合って居る。そこで地蔵様の年齢《とし》も五百年あまり若くなった。地蔵様は若くなって嬉しいとも云わず、古さが減っていやとも云わず、ゆったりした頬《ほお》に愛嬌を湛えて、気永に合掌してござる。宝永四年と云えば、富士が大暴れに暴れて、宝永山《ほうえいざん》が一夜に富士の横腹を蹴破って跳《おど》り出た年である。富士から八王子在の高尾までは、直径にして十里足らず。荒れ山が噴き飛ばす灰を定めて地蔵様は被《かぶ》られたことであろう。如何《いかが》でした、其時の御感想は? 滅却心頭火亦涼と澄ましてお出でしたか? 何と云うても返事もせず、雨が降っても、日が照りつけても、昼でも、夜でも、黙って只合掌してござる。時々は馬鹿にした小鳥が白い糞をしかける。いたずらな蜘《くも》めが糸で頸《くび》をしめる。時々は家の主が汗臭い帽子を裏返しにかぶせて日に曝《さ》らす。地蔵様は忍辱《にんにく》の笑貌《えがお》を少しも崩さず、堅固に合掌してござる。地蔵様を持て来た時植木屋が石の香炉を持て来て前に据えてくれた。朝々其れに清水を湛えて置く。近在を駈け廻って帰ったデカやピンが喘《あえ》ぎ/\来ては、焦《こが》れた舌で大きな音をさせて其水を飲む。雀や四十雀《しじゅうから》や頬白《ほおじろ》が時々来ては、あたりを覗《うかが》って香炉の水にぽちゃ/\行水をやる。時々は家の主も瓜の種なぞ浸《ひた》して置く。散《ち》り松葉《まつば》が沈み、蟻や螟虫《あおむし》が溺死《できし》して居ることもある。尺に五寸の大海に鱗々の波が立ったり、青空や白雲が心《こころ》長閑《のどか》に浮いて居る日もある。地蔵様は何時も笑顔で、何時も黙って、何時も合掌してござる。
 地蔵様の近くに、若い三本松と相対して、株立《かぶだ》ちの若い山もみじがある。春夏は緑、秋は黄と紅の蓋《がい》をさし翳《かざ》す。家の主《あるじ》は此山もみじの蔭に椅子テーブルを置いて、時々読んだり書いたり、而して地蔵様を眺めたりする。彼の父方の叔母《おば》は、故郷《ふるさと》の真宗の寺の住持の妻になって、つい去年まで生きて居たが、彼は儒教実学の家に育って、仏教には遠かった。唯乳母が居て、地獄、極楽、剣《つるぎ》の山、三途《さんず》の川、賽《さい》の河原《かわら》や地蔵様の話を始終聞かしてくれた。四《よつ》五歳《いつつ》の彼は身にしみて其話を聞いた。而して子供心にやるせない悲哀《かなしみ》を感じた。其様な話を聞いたあとで、つく/″\眺めたうす闇《ぐら》い六畳の煤《すす》け障子にさして居る夕日の寂しい/\光を今も時々憶い出す。
 賽《さい》の河原は哀《かな》しい而して真実な俚伝《りでん》である。此世は賽の河原である。大御親《おおみおや》の膝下から此世にやられた一切衆生は、皆賽の河原の子供である。子供は皆小石を積んで日を過《すご》す。ピラミッドを積み、万里の長城を築くのがエライでも無い。村の卯之吉が小麦|蒔《ま》くのがツマラヌでも無い。一切の仕事は皆努力である。一切の経営は皆遊びである。而して我儕《われら》が折角骨折って小石を積み上げて居ると、無慈悲の鬼めが来ては唯一棒に打崩す。ナポレオンが雄図《ゆうと》を築《きず》くと、ヲートルルー[#「ヲートルルー」に二重傍線]が打崩す。人間がタイタニックを造って誇り貌《が》に乗り出すと、氷山《ひょうざん》が来て微塵《みじん》にする。勘作が小麦を蒔いて今年は豊年だと悦んで居ると、雹《ひょう》が降《ふ》って十分間に打散らす。蝶よ花よと育てた愛女《まなむすめ》が、堕落書生の餌《えば》になる。身代を注《つ》ぎ込んだ出来の好い息子が、大学卒業間際に肺病で死んで了う。蜀山《しょくさん》を兀《は》がした阿房宮が楚人《そびと》の一炬《いっきょ》に灰になる。人柱を入れた堤防が一夜に崩れる。右を見、左を見ても、賽の河原は小石の山を鬼に崩されて泣いて居る子供ばかりだ。泣いて居るばかりなら猶《まだ》可《よ》い。試験に落第して、鉄道往生をする。財産を無くして、狂《き
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