から十丁程南に入って、北多摩郡中では最も東京に近い千歳村字|粕谷《かすや》の南耕地《みなみこうち》と云って、昔は追剥《おいはぎ》が出たの、大蛇が出て婆《ばば》が腰をぬかしたのと伝説がある徳川の御林《おはやし》を、明治近くに拓《ひら》いたものである。林を拓いて出来た新開地だけに、いずれも古くて三十年二十年前|株《かぶ》を分けてもらった新家の部落で、粕谷中でも一番新しく、且人家が殊《こと》に疎《まばら》な方面である。就中《なかんずく》彼の家は此新部落の最南端に一つ飛び離れて、直ぐ東隣は墓地、生きた隣は背戸《せど》の方へ唯一軒、加之《しかも》小一丁からある。田圃《たんぼ》向うの丘の上を通る青山街道から見下ろす位の低い丘だが、此方から云えば丘の南端に彼の家はあって、東一帯は八幡の森、雑木林、墓地の木立に塞《ふさ》がれて見えぬが、南と西とは展望に障るものなく、小さなパノラマの様な景色が四時朝夕眺められる。
二
三鷹村《みたかむら》の方から千歳村を経《へ》て世田ヶ谷の方に流るゝ大田圃の一の小さな枝《えだ》が、入江《いりえ》の如く彼が家の下を東から西へ入り込んで居る。其西の行きどまりは築《つ》き上げた品川堀の堤《つつみ》の藪《やぶ》だたみになって、其上から遠村近落の樫《かし》の森や松原を根占《ねじめ》にして、高尾小仏から甲斐東部の連山が隠見出没して居る。冬は白く、春は夢の様に淡《あわ》く、秋の夕《ゆうべ》は紫に、夏の夕立後はまさまさと青く近寄って来る山々である。近景の大きな二本松が此山の鏈《くさり》を突破《とっぱ》して居る。
此山の鏈を伝うて南東へ行けば、富士を冠《かん》した相州連山の御国山《みくにやま》から南端の鋭い頭をした大山まで唯一目に見られる筈だが、此辺で所謂富士南に豪農の防風林《ぼうふうりん》の高い杉の森があって、正に富士を隠して居る。少し杉を伐ったので、冬は白いものが人を焦《じ》らす様にちら/\透《す》いて見えるのが、却て懊悩《おうのう》の種になった。あの杉の森がなかったら、と彼は幾度思うたかも知れぬ。然し此頃では唯其杉の伐られんことを是れ恐るゝ様になった。下枝《したえだ》を払った百尺もある杉の八九十本、欝然《うつぜん》として風景を締めて居る。斯杉の森がなかったら、富士は見えても、如何に浅薄の景色になってしまったであろう。春雨《はるさめ》の明けの朝、秋霧《あきぎり》の夕、此杉の森の梢《こずえ》がミレージの様に靄《もや》から浮いて出たり、棚引く煙を紗《しゃ》の帯の如く纏《まと》うて見たり、しぶく小雨に見る/\淡墨《うすずみ》の画になったり、梅雨には梟《ふくろう》の宿、晴れた夏には真先に蜩《ひぐらし》の家になったり、雪霽《ゆきばれ》には青空に劃然《くっきり》と聳《そび》ゆる玉樹の高い梢に百点千点黒い鴉《からす》をとまらして見たり、秋の入日の空《そら》樺色に※[#「日+熏」、第3水準1−85−42]《くん》ずる夕は、濃紺《のうこん》濃紫《のうし》の神秘な色を湛《たた》えて梢を距《さ》る五尺の空に唯一つ明星を煌《きら》めかしたり、彼の杉の森は彼に尽きざる趣味を与えてくれる。
三
彼の家の下なる浅い横長の谷は、畑が重《おも》で、田は少しであるが、此入江から本田圃に出ると、長江の流るゝ様に田が田に連なって居る。まだ北風の寒い頃、子を負った跣足《はだし》の女の子が、小目籠《めかい》と庖刀を持って、芹《せり》、嫁菜《よめな》、薺《なずな》、野蒜《のびる》、蓬《よもぎ》、蒲公英《たんぽぽ》なぞ摘みに来る。紫雲英《れんげそう》が咲く。蛙が鳴く。膝まで泥になって、巳之吉亥之作が田螺拾《たにしひろ》いに来る。簑笠《みのかさ》の田植は骨でも、見るには画である。螢には赤い火が夏の夜にちら/\するのは、子供が鰌突《どじょうつ》きして居るのである。一条の小川が品川堀の下を横に潜《くぐ》って、彼の家の下の谷を其南側に添うて東へ大田圃の方へと流れて居る。最初は女竹《めだけ》の藪の中を流れ、それから稀に葭《よし》を交えた萱《かや》の茂る土堤《どて》の中を流れる。夏は青々として眼がさめる。葭切《よしきり》、水鶏《くいな》の棲家《すみか》になる。螢が此処からふらりと出て来て、田面に乱れ、墓地を飛んでは人魂《ひとだま》を真似て、時々は彼が家の蚊帳《かや》の天井まで舞い込む。夏は翡翠《ひすい》の屏風《びょうぶ》に光琳《こうりん》の筆で描いた様に、青萱《あおかや》まじりに萱草《かんぞう》の赭《あか》い花が咲く。萱、葭の穂が薄紫に出ると、秋は此小川の堤《つつみ》に立つ。それから日に/\秋風《あきかぜ》をこゝに見せて、其薄紫の穂が白く、青々とした其葉が黄ばみ、更に白らむ頃は、漬菜《つけな》を洗う七ちゃんが舌鼓《したつづみ》うつ程、小川の水
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