は斯様《こん》なはき/\した成績《せいせき》を見なければ、だらけてしまう。夏は自然の「ヤンキーズム」だ。而《そう》して此夏が年が年中で、正月元日浴衣がけで新年御芽出度も困りものだが、此処《ここ》らの夏はぐず/\するとさっさと過ぎてしまう位なので、却ってよいのである。
四
夏の命《いのち》は水だが、川らしい川に遠く、海に尚遠い斯《この》野の村では、水の楽《たのしみ》が思う様にとれぬ。
昨年《さくねん》の夏、彼は大きな甕《かめ》を買った。径《わたり》三尺、深さは唯《たった》一尺五寸の平たい甕である。これを庭の芝生の端《はし》に据えて、毎朝水晶の様な井《いど》の水を盈《み》たして置く。大抵大きなバケツ八はいで溢《あふ》るゝ程になる。水気の少い野の住居は、一甕《ひとかめ》の水も琵琶《びわ》洞庭《どうてい》である。太平洋大西洋である。書斎《しょさい》から見ると、甕の水に青空が落ちて、其処に水中の天がある。時々は白雲《しらくも》が浮く。空を飛ぶ五位鷺《ごいさぎ》の影も過《よ》ぎる。風が吹くと漣《さざなみ》が立つ。風がなければ琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》の如く凝《こ》って居る。
日は段々高く上り、次第に熱して来る。一切の光熱線《こうねつせん》が悉く此径三尺の液体《えきたい》天地に投射《とうしゃ》せらるゝかと思われる。冷たく井を出た水も、日の熱心にほだされて、段々冷たくなくなる。生温《なまぬる》くなる。所謂日なた水になる。正午の頃は最早湯だ。非常に暑い日は、甕の水もうめ水が欲しい程に沸く。
午後二時三時の交《あいだ》は、涼しいと思う彼の家でも、九十度にも上る日がある。風がぱったり止まる日がある。昼寝にも飽きる。新聞を見るすらいやになる。此時だ、此時彼は例の通り素裸《すっぱだか》で薩摩下駄をはき、手拭《てぬぐい》を持って、突《つ》と庭に出る。日ざかりの日は、得たりや応《おう》と真裸の彼を目がけて真向から白熱箭《はくねつせん》を射かける。彼は遽《あわ》てず騒がず悠々と芝生を歩んで、甕の傍に立つ。先《まず》眼鏡《めがね》をとって、ドウダンの枝にのせる。次ぎに褌《したおび》をとって、春モミジの枝にかける。手拭を右の手に握り、甕から少しはなれた所に下駄を脱いで、下駄から直に大胯《おおまた》に片足を甕に踏み込む。呀《あ》、熱《あつ》、と云いたい位。つゞいて一方の足も入れると、一気に撞《どう》と尻餅《しりもち》搗《つ》く様に坐《す》わる。甕の縁《ふち》を越して、水がざあっと溢《あふ》れる。彼は悠然と甕の中に坐って、手拭を濡《ぬ》らして、頭から面《つら》、胸から手と、ゆる/\洗う。水はます/\溢れて流れる。乾いた庭に夕立のあとの如く水が流れる。油断をした蟻《あり》や螻《けら》が泡《あわ》を喰《く》って逃げる。逃げおくれて流される。彼は好い気もちになって、じいと眼をつぶる。眼を開《あ》いて徐に見廻わす。上には青天がある。下には大地がある。中には赤裸《あかはだか》の彼がある。見物人は、太陽と雀と虫と樹と草と花と家ばかりである。時々は褌の洗濯もする。而してそれを楓《かえで》の枝に曝《さ》らして置く。五分間で火熨斗《ひのし》をした様に奇麗に乾く。
十分十五分ばかりして、甕を出る。濡手拭《ぬれてぬぐい》を頭にのせたまゝ、四体は水の滴《た》るゝまゝに下駄をはいて、今母の胎内を出た様に真裸で、天上天下唯我独尊と云う様な大踏歩《だいとうほ》して庭を歩いて帰る。帰って縁に上って、手拭で悉皆体を拭いて、尚暫くは縁に真裸で立って居る。全く一皮《ひとかわ》脱《ぬ》いだ様で、己《わ》が体のあたりばかり涼しい気がそよぐ。縁から見ると、七分目に減《へ》った甕の水がまだ揺々《ゆらゆら》して居る。其れは夕蔭に、乾《かわ》き渇《かわ》いた鉢の草木にやるのである。稀には彼が出たあとで、妻児《さいじ》が入ることもある。青天白日、庭の真中で大びらに女が行水《ぎょうずい》するも、田舎住居のお蔭である。
夏は好い。夏が好い。
[#改ページ]
低い丘の上から
一
彼は毎《つね》に武蔵野の住民と称して居る。然し実を云えば、彼が住むあたりは、武蔵野も場末《ばすえ》で、景が小さく、豪宕《ごうとう》な気象に乏しい。真の武蔵野を見るべく、彼の家から近くて一里強北に当って居る中央東線の鉄路を踏み切って更に北せねばならぬ。武蔵野に住んで武蔵野の豪宕|莽蒼《もうそう》の気を領《りょう》することが出来ず、且|居常《きょじょう》流水の音を耳にすることが出来ぬのが、彼の毎々繰り返えす遺憾である。然し縁なればこそ来て六年も住んだ土地だ。平凡は平凡ながら、平凡の趣味も万更捨てたものでもない。
彼の住居は、東京の西三里、玉川の東一里、甲州街道
前へ
次へ
全171ページ中63ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング