《きょうたん》屑々乎《せつせつこ》たる小人の彼は、身をめぐる自然の豪快を仮って、纔《わずか》に自家の気焔を吐くことが出来る。排外的に立籠めた戸障子を思いきり取り払う。小面倒な着物なンか脱いでしもうて、毛深い体丸出しの赤裸々黒条々をきめ込む。大抵の客には裸体若くは半裸体で応接する。一夏過ぎると、背も腹も手足も、海辺に一月も過した様に真黒になる。臆病者も頗英雄になった気もちだ。夏の快味は裸の快味だ。裸の快味は懺悔《ざんげ》の快味だ。さらけ出した体《からだ》の土用干《どようぼし》、霊魂《れいこん》の煤掃《すすは》き、あとの清々《すがすが》しさは何とも云えぬ。起きぬけに木の下で冷たい水蜜桃をもいでがぶりと喰いついたり、朝露に冷え切った水瓜《すいか》を畑で拳固《げんこ》で破《わ》って食うたり、自然の子が自然に還る快味は言葉に尽せぬ。
彼が家では、夏の夕飯《ゆうめし》をよく芝生でやる。椅子テーブルのこともあり、蓆《むしろ》を敷いて低い食卓の事もある。金を爍《とら》かす日影椎の梢に残り、芝生はすでに蔭に入り、蜩《ひぐらし》の声何処からともなく流れて来ると、成人《おとな》も子供も嬉々《きき》として青芝の上の晩餐《ばんさん》の席に就くのである。犬や猫が、主人も大分開けて我党に近くなった、頗話せると云った様な顔をして、主人の顔と食卓の上を等分に見ながら、おとなしく傍に附いて居る。毎常《いつも》の夕飯がうまく喰われる、永くなる。梢に残った夕日が消えて、樺色《かばいろ》の雲が一つ波立たぬ海の様な空に浮いて居る。夏の夕明《ゆうあかり》は永い。まだ暮れぬ、まだ暮れぬ、と思う間に、其まゝすうと明るくなりまさる、眼をあげると、何時の間にか頭の上にまん丸な月が出て居て、団欒《だんらん》の影黒く芝生に落ちて居る。
二
強烈な日光の直射程痛快なものは無い。日蔭《ひかげ》幽《ゆう》に笑む白い花もあわれ、曇り日に見る花の和《やわら》かに落ちついた色も好いが、真夏の赫々《かくかく》たる烈日を存分受けて精一ぱい照りかえす花の色彩の美は何とも云えぬ。彼は色が大好きである。緋でも、紅でも、黄でも、紫でも、碧でも、凡そ色と云う色皆|焔《ほのお》と燃え立つ夏の日の花園を、経木《きょうぎ》真田《さなだ》の帽一つ、真裸でぶらつく彼は、色の宴《うたげ》、光の浴《バス》に恍惚とした酔人である。彼は一滴の酒も飲まぬが、彼は色にはタワイもなく酔う。曾て戯れにある人のはがき帖《じょう》に、
[#ここから5字下げ]
此身|蝶《てふ》にもあるまじけれど
[#ここから3字下げ]
わけもなくうれしかりけり日は午《ご》なる
[#ここから7字下げ]
真夏《まなつ》の園《その》の花のいろ/\
[#ここで字下げ終わり]
三
変化の鮮やかは夏の特色である。彼の郷里熊本などは、昼間《ひるま》は百度近い暑さで、夜も油汗《あぶらあせ》が流れてやまぬ程|蒸暑《むしあつ》い夜が少くない。蒲団《ふとん》なンか滅多に敷かず、蓙《ござ》一枚で、真裸に寝たものだ。此様《こんな》でも困る。朝顔の花一ぱいにたまる露の朝涼《ちょうりょう》、岐阜《ぎふ》提灯《ちょうちん》の火も消えがちの風の晩冷《ばんれい》、涼しさを声にした様な蜩《ひぐらし》に朝涼《あさすず》夕涼《ゆうすず》を宣《の》らして、日間《ひるま》は草木も人もぐったりと凋《しお》るゝ程の暑さ、昼夜の懸隔《けんかく》する程、夏は好いのである。
ヒマラヤ[#「ヒマラヤ」に二重傍線]を五《いつつ》も積み重ねた雲の峰が見る間に崩《くず》れ落ちたり、濃《こ》いインキの一点を天の一角にうった雲が十分間に全天空《ぜんてんくう》を鼠色に包んだり、電を閃《ひらめ》かしたり、雹《ひょう》を撒《ま》いたり、雷を鳴らしたり、夕立になったり、虹《にじ》を見せたり。而《そう》して急に青空になったり、分秒を以てする天空の変化は、眼にもとまらぬ早わざである。夏の天に目ざましい変化があれば、夏の地にも鮮やかな変化がある。尺を得れば尺、寸を獲《う》れば寸と云う信玄流《しんげんりゅう》の月日を送る田園の人も、夏ばかりは謙信流《けんしんりゅう》の一気呵成《いっきかせい》を作物の上に味《あじ》わうことが出来る。生憎《あいにく》草も夏は育つが、さりとて草ならぬものも目ざましく繁《しげ》る。煙管《きせる》啣《くわ》えて、後手《うしろで》組んで、起きぬけに田の水を見る辰《たつ》爺《じい》さんの眼に、露だらけの早稲《わせ》が一夜に一寸も伸びて見える。昨日花を見た茄子《なす》が、明日はもうもげる。瓜の蔓《つる》は朝々伸びて、とめてもとめても心《しん》をとめ切れぬ。二三日打っちゃって置くと、甘藷《さつまいも》の蔓は八重がらみになる。如何に一切を天道様に預けて、時計に用がない百姓でも、時に
前へ
次へ
全171ページ中62ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング