けい》の大きな舶来《はくらい》唐墨《とうぼく》があったので、快《こころよ》く用立てた。今夜見れば墨痕《ぼくこん》美わしく「彰忠《しょうちゅう》」の二字に化《な》って居る。
拝殿には、村の幹部が、其ある者は紋付羽織など引かけて、他村から来る者に挨拶したり、机に向って奉納寄進のビラを書いたりして居る。「さあ此方《こち》へ」と招かれる。ビラを書いてくれと云う。例の悪筆を申立てゝ逃げる。
拝殿から見下ろすと、驚く可し、東向きのだら/\坂になって居た八幡の境内《けいだい》が、何時の間にか歌舞伎座か音楽学校の演奏室の様な次第高の立派な観劇場になり済ました。坂の中段もとに平生《ふだん》並んで居る左右二頭の唐獅子《からじし》は何処へか担《かつ》ぎ去られ、其あとには中々馬鹿にはならぬ舞台花道が出来て居る。桟敷《さじき》も左右にかいてある。拝殿下《はいでんした》から舞台下までは、次第下りに一面|莚《むしろ》を敷きつめ、村はもとより他村の老若男女彼此四五百人も、ぎっしり詰まって、煙草を喫《す》ったり、話したり、笑ったり、晴れと着飾った銀杏返《いちょうがえ》しの娘が、立って見たり座《すわ》ったり、桟敷からつるした何十と云うランプの光の下にがや/\どよめいて居る。無論屋根が無いので、見物の頭の上には、霜夜《しもよ》の星《ほし》がキラ/\光って居る。舞台横手のチョボの床《ゆか》には、見た様な朝鮮簾《ちょうせんみす》が下って居ると思うたは、其れは若い者等が彼の家から徴発《ちょうはつ》して往った簾であった。花道には、一《ひとつ》金《きん》何十銭也船橋何某様、一金何十銭也廻沢何某様と隙間《すきま》もなくびらを貼《は》った。引切りなしに最寄《もより》の村々から紋付羽織位引かけた人達がやって来る。拝殿の所へ来て、「今晩《こんばん》は御芽出度《おめでと》う、此はホンの何ですが」と紙包を出す。幹部が丁寧に答礼して、若い者を呼び、桟敷や土間に案内さす。ビラを書く紙がなくなった、紙を持て来《こ》うと幹部が呼ぶ。素通《すどお》し眼鏡をかけたイナセな村の阿哥《あにい》が走る。「ありゃ好い男だな」と他村の者が評する。耳の届く限り洋々たる歓声《かんせい》が湧《わ》いて、理屈屋の石山さんも今日《きょう》はビラを書き/\莞爾※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《にこにこ》上機嫌で居る。
彼等の来様《きよう》が些《ちと》晩《おそ》かったので、三番叟《さんばそう》は早や済んで居た。伊賀越《いがごえ》の序幕は、何が何やら分からぬ間に過ぎた。彼等夫妻も拝殿から下りて、土間に割《わ》り込み、今幕があいた沼津の場面を眺める。五十円で買われて来た市川某尾上某の一座が、団十菊五|芝翫《しかん》其方退《そっちの》けとばかり盛に活躍する。お米は近眼の彼には美しく見えた。お米の手に持つ菊の花、飾《かざ》った菊の植木鉢、それから借金取が取って掃《は》き出す手箒《てぼうき》も、皆彼の家から若者等が徴発《ちょうはつ》して往ったのである。分かるも、分からぬも、観客《けんぶつ》は口あんごりと心も空《そら》に見とれて居る。平作《へいさく》は好かった。隣に座って居る彼が組頭《くみがしら》の恵比寿顔《えびすがお》した爺さんが眼を霑《うる》まして見て居る。頭上《ずじょう》の星も、霜夜も、座下の荒莚《あらむしろ》も忘れて、彼等もしばし忘我の境に入った。やがてきり※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]と舞台が廻る。床下《ゆかした》で若者が五人がゝりで廻すのである。村芝居に廻り舞台は中々|贅沢《ぜいたく》なものだ。
次ぎは直ぐ仇討《かたきうち》の幕になった。狭い舞台にせゝこましく槍をしごいたり眉尖刀《なぎなた》を振ったり刀を振り廻したりする人形が入り乱れた。唐木《からき》政右衛門《まさえもん》が二刀を揮って目ざましく働く。「あの腰付《こしつき》を御覧なさい」と村での通人《つうじん》仁左衛門さんが嘆美する。「星合団四郎なンか中々強いやつが向う方に居るのですからナ」と講談物《こうだんもの》仕入れの智識をふり廻す。
夜は最早十二時。これから中幕の曾我対面がある。彼等は見残して、留守番も火の気も無い家に帰った。平作やお米が踊《おど》る彼等が夢の中にも、八幡の賑合《にぎわい》は夜すがら海の音の様に響いて居た。
[#地から3字上げ](明治四十年 十一月)
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夏の頌
一
夏は好い。夏が好い。夏ばかりでも困ろうが、四時春なンか云う天国は平に御免を蒙る。米国加州人士の中には、わざ※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]夏を迎えに南方に出かける者もあるそうな。不思議はない。
夏は放胆《ほうたん》の季節だ。小心《しょうしん》怯胆
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