って居る内、夜の明くる様に西の空が明るくなり出した。霽際《あがりぎわ》の繊《ほそ》い雨が、白い絹糸を閃《ひら》めかす。一足《ひとあし》縁へ出て見ると、東南の空は今真闇である。最早夕立の先手が東京に攻め寄せた頃である。二百万の人の子の遽《あわ》てふためく状《さま》が見える様だ。
何時《いつ》の間にかばったり雨は止んで、金光《こんこう》厳《いかめ》しく日が現われた。見る/\地面を流るゝ水が止まった。風がさあっと西から吹いて来る。庭の翠松がばら/\と雫《しずく》を散らす。何処かでキリン/\と蜩《ひぐらし》が心地よく鳴き出した。
時計を見ると、二時三十分。夕立は唯三十分つゞいたのであった。
浴衣《ゆかた》を引かけ、低い薩摩下駄を突かけて畑に出た。さしもはしゃいで居た畑の土がしっとりと湿《うるお》うて、玉蜀黍《とうもろこし》の下葉やコスモスの下葉や、刎《は》ね上げた土まみれになって、身重げに低れて居る。何処《どこ》を見ても、うれしそうに緑《みどり》がそよいで居る。東の方では雷《らい》がまだ鳴って居る。
「虹収仍白雨《にじおさまってなおはくう》、雲動忽青山《くもうごいてたちまちせいざん》」
斯く打吟《うちぎん》じつゝ西の方を見た。高尾、小仏や甲斐の諸山は、一風呂浴びて、濃淡の碧《みどり》鮮《あざ》やかに、富士も一筋《ひとすじ》白い竪縞《たてじま》の入った浅葱《あさぎ》の浴衣を着て、すがすがしく笑《え》んで居る。
「キリン、キリンキリン!」
蜩《ひぐらし》がまた一声鳴いた。
隣家《となり》の主人が女児《こども》を負って畑廻わりをして居る。
「好いおしめりでございました」
と云う挨拶を透垣越《すいがきご》しに取りかわす。
二時間ばかりすると、明日《あす》は「おしめり正月」との言いつぎが来た。
詩篇《しへん》を出して、大声に第六十五篇を朗詠《ろうえい》する。
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『爾《なんぢ》地にのぞみて水そゝぎ、大に之をゆたかにし玉へり。神の川に水満ちたり。爾《なんぢ》かくそなへをなして、穀物《たなつもの》をかれらにあたへたまへり。爾《なんぢ》※[#「田+犬」、第4水準2−81−26]《たみぞ》を大にうるほし、畝《うね》をたひらにし、白雨《むらさめ》にてこれをやはらかにし、その萌《も》え出づるを祝し、また恩恵《めぐみ》をもて年の冕弁《かんむり》としたまへり。爾《なんぢ》の途には膏《あぶら》したゝれり。その恩滴《したゝり》は野の牧場《まき》をうるほし、小山はみな歓《よろこ》びにかこまる。牧場は皆《みな》羊《ひつじ》の群を衣《き》、もろ/\の谷は穀物《たなつもの》におほはれたり。彼等は皆《みな》よろこびてよばはりまた謳《うた》ふ』
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[#地から3字上げ](明治四十五年 七月廿一日)
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村芝居
裏《うら》の八幡で村芝居《むらしばい》がある。
一昨日《おとつい》は、一字の男総出で、隣村の北沢から切組《きりくみ》舞台《ぶたい》を荷車で挽いて来た。昨日は終日舞台かけで、村で唯一人《ただひとり》の大工は先月来仕かけて居る彼が家の仕事を休《やす》んで舞台や桟敷《さじき》をかけた。今夜は愈芝居である。
十一月も深い夜の事だ。外套《がいとう》を着て、彼等夫妻は家を空虚《からあき》にして出かけた。
平生から暗くて淋《さび》しい八幡|界隈《かいわい》が、今夜は光明世界人間の顔の海に化けて居る。八幡横手の阪道から、宮裏《みやうら》の雑木林をかけて、安小間物屋、鮨屋《すしや》、柿蜜柑屋、大福駄菓子店、おでん店、ずらりと並んで、カンテラやランプの油煙《ゆえん》を真黒に立てゝ、人声がや/\噪《さわ》いで居る。其中を縫《ぬ》うて、宮の横手に行くと、山茶花《さざんか》小さな金剛纂《やつで》なぞ植え込んだ一寸した小庭が出来て居て、ランプを入れた燈籠《とうろう》が立ち、杉皮葺《すぎかわぶき》の仮屋根の下に墨黒々と「彰忠《しょうちゅう》」の二大字を書いた板額《いたがく》が掲《かか》って居る。然る可き目的がなければ村芝居の興行は許されぬと云う其筋の御意だそうで、此度の芝居も村の諸君が智慧《ちえ》をしぼって、日露戦役記念の為とこじつけ、漸《ようや》く役場や警察の許可を得た。其れについて幸い木目《もくめ》見事《みごと》の欅板《けやきいた》があるので、戦役記念の題字を書いてくれと先日村の甲乙《たれかれ》が彼に持込んで来たが、書くが職業と云う条あまりの名筆故《めいひつゆえ》彼は辞退した。そこで何処《どこ》かの坊さんに頼んだそうだが、坊さんは佳《いい》墨《すみ》がなければ書けぬと云うたそうで、字を書かぬなら墨を貸してくれと村の人達が墨を借りに来た。幸い持合せの些《ちと》泥臭《どろくさ》いが見かけは立派な円筒形《えんとう
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