くわ》をとった。どさりと赤土の塊《くれ》が柩の上に落ちはじめた。
「皆入れてしまうとよ」囁《ささや》き合うて、行列の先頭に来た紙幟は青竹からはずして、柩の上に投げ込まれた。
 土がまたドサ/\落ちる。

           *

 葬式の五日目に、話題に上った上祖師ヶ谷の行衛不明の兵士の消息を乳屋《ちちや》が告げた。兵士の彦さんは縊死《いっし》したのであった。代々木の山の中に、最早|腐《くさ》りかけて、両眼は烏《からす》につゝかれ、空洞《うろ》になって居たそうだ。原因は分らぬが、彦さんの実父は養子で、彦さんの母に追出され、今の爺《おやじ》は後夫《あといり》と云う事であった。
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     田川

 最初近いと聞いた多摩川《たまがわ》が、家から一里の余もある。玉川上水すら半里からある。好い水の流れに遠いのが、幾度《いくたび》も繰り返えさるゝ失望であった。つい其まゝに住むことになったが、流水《りゅうすい》があったらと思わぬことは無い。せめて掘抜井《ほりぬきいど》でも掘ろうかと思うが、経験ある人の言によると、此附近では曾て多額の費用をかけて掘った人があって、水は地面まで来るには来たが、如何しても噴《ふ》き上らぬと云うのである。水の楽《たのしみ》は、普通の井と、家内に居ては音は聞こえぬ附近の田川《たがわ》で満足しなければならぬ。
 彼の家から五六丁はなれて品川堀がある。品川へ行く灌漑専用の堀川で、村の為には洗滌《あらいすすぎ》の用にしかならぬ。一昨々年の夏の出水に、村内で三間ばかり堤防が崩れ、堤《つつみ》から西は一時首まで浸《つか》る程の湖水になり、村総出で防水工事をやった。曾て村の小児が溺死したこともあって、村の為にはあまり有り難くもない水である。品川堀の外には、彼が家の下なる谷を西から東へ流るゝ小さな田川と、八幡|田圃《たんぼ》を北から南東に流るゝ大小|二筋《ふたすじ》の田川がある。
 彼の屋敷下の小さな谷を流るゝ小川は、何処から来るのか知らぬが、冬は大抵|涸《か》れて了う。其かわり夏の出水には堤を越して畑に溢《あふ》れる。其様な時には、村の子供が大喜悦《おおよろこび》で、キャッ/\騒いで泳いで居る。本当の畑水練である。農としては出水を憂うべきだが、遊び好きなる事に於て村の悪太郎《あくたろう》等に劣るまじい彼は、畑を流るゝ濁水《だくすい》の音|颯々《さっさつ》として松風の如く心耳《しんじ》一爽《いっそう》の快を先ず感じて、尻《しり》高々とからげ、下駄ばきでざぶ/\渡って見たりして、其日|限《ぎ》りに水が落ちて了うのを毎《つね》に残念に思うのである。兎に角此気まぐれな小川でも、これあるが為に少しは田も出来る。堤《つつみ》の萱《かや》や葭《よし》は青々と茂《しげ》って、殊更《ことさら》丈《たけ》も高い。これあるが為に、夏は螢《ほたる》の根拠地《こんきょち》ともなる。朝から晩までべちゃくちゃ囀《さえず》る葭原雀《よしわらすずめ》の隠れ家《が》にもなる。五月雨《さみだれ》の夜にコト/\叩《たた》く水鶏《くいな》の宿にもなる。
 八幡|田圃《たんぼ》を流るゝ田川の大きな方を、此辺では大川と云う。一間|幅《はば》しかない大川で、玉川|浄水《じょうすい》を分った灌漑用水である。此水あるが為に、千歳村から世田《せた》ヶ谷《や》かけて、何百町の田が出来る。九十一歳になる彼の父は、若い頃は村吏《そんり》県官《けんかん》として農政には深い趣味と経験を有って居る。其子の家に滞留中此田川の畔《くろ》を歩いて、熟々《つくづく》と水を眺め、喟然《きぜん》として「仁水《じんすい》だ喃《なあ》」と嘆じた。趣味を先ず第一に見る其子の為にも不仁の水とは云われない。此水あるが為に田圃がある。春は紫雲英《れんげそう》の花氈《はなむしろ》を敷く。淋しい村を賑《にぎ》わして蛙《かわず》が鳴く。朝露白い青田の涼しさも、黄なる日の光を震わして蝗《いなご》飛ぶ秋の田の豊けさに伴うさま/″\の趣も、此水の賜ものである。こゝにこの水流るゝがために、水を好む野茨《のばら》も心地《ここち》よく其の涯《ほとり》に茂って、麦が熟《う》れる頃は枝も撓《たわ》に芳《かんば》しい白い花を被《かぶ》る。薄紫の嫁菜《よめな》の花や、薄紅の犬蓼《いぬたで》や、いろ/\の秋の草花も美しい。鮒《ふな》や鰌《どじょう》を子供が捕る。水底《みなそこ》に影を曳《ひ》いて、メダカが游《およ》ぐ。ドブンと音して蛙が飛び込む。稀《まれ》にはしなやかな小さな十六盤橋《そろばんばし》を見せて、二尺五寸の蛇が渡る。田に入るとて水を堰《せ》く頃は、高八寸のナイヤガラが出来て、蛙の声にまぎらわしい音を立てる。玉川に行くかわりに子供はこゝで浴びる。「蘆の芽や田に入る水も隅田川」然《そう》だ。彼の村を流るゝ田川も、やは
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