り玉川、玉川の孫《まご》であった。祖父様の玉川の水が出る頃は、この孫川《まごがわ》の水も灰《はい》がゝった乳色になるのである。乞食は時々こゝに浴びる。去年の夏は照《てり》がつゞいたので、村居六年はじめて雨乞《あまごい》を見た。八幡に打寄って村の男衆が、神酒《みき》をあげ、「六根清浄《ろっこんしょうじょう》………………懺悔※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《さんげさんげ》」と叫んだあとで若い者が褌《ふんどし》一つになって此二間|幅《はば》の大川に飛び込み、肩から水を浴びて「六根清浄」……何とかして「さんげ※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]」と口々に叫んだ。其声は舜旻天《しゅんびんてん》に号泣《ごうきゅう》する声の如くいじらしく耳に響いた。霜の朝など八幡から眺めると、小川の上ばかり水蒸気がほうっと白く騰《た》って、水の行衛《ゆくえ》が田圃はるかに指《ゆび》さゝれる。
筧《かけひ》の水音を枕に聞く山家《やまが》の住居。山雨常に来るかと疑う渓声《けいせい》の裡《うち》。平時は汪々《おうおう》として声なく音なく、一たび怒る時万雷の崩るゝ如き大河の畔《ほとり》。裏に鳧《ふ》を飼い門に舟を繋《つな》ぐ江湖の住居。色と動と音と千変万化の無尽蔵たる海洋の辺《ほとり》。野に※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]《あ》いた彼には、此等のものが時々|幻《まぼろし》の如く立現われる。然しながら仮《かり》にサハラ[#「サハラ」に二重傍線]、ゴビ[#「ゴビ」に二重傍線]の一切水に縁遠い境に住まねばならぬとなったら如何《どう》であろう。また竈《かまど》に蛭《ひる》這《は》い蛇《へび》寝床《ねどこ》に潜《もぐ》る水国《すいごく》卑湿《ひしつ》の地に住まねばならぬとなったら如何であろう。中庸は平凡である。然し平凡には平凡の意味があり強味《つよみ》がある。
田川の水よ。※[#「人べん+爾」、第3水準1−14−45]《なんじ》に筧の水の幽韻《ゆういん》はない。雪氷を融《と》かした山川の清冽《せいれつ》は無い。瀑布《ばくふ》の咆哮《ほうこう》は無い。大河の溶々《ようよう》は無い。大海の汪洋《おうよう》は無い。※[#「人べん+爾」、第3水準1−14−45]は謙遜な農家の友である。高慢な心の角《つの》を折り、騒がしい気の遽《あわ》たゞしさを抑《おさ》えて、心静《こころしずか》に※[#「人べん+爾」、第3水準1−14−45]の声低く語る教訓を聴かねばならぬ。
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驟雨浴
両三日来、西の地平線上、甲相武信の境を造くる連山の空に当って、屡々《しばしば》黒雲が立った。遠寄《とおよせ》の太鼓の様に雷も時々鳴る。黒雲の幕の中で、ぱっ/\と火花を散す様に、電光も射す。夕立が来ると云いながら、一滴も落ちずして二三日過ぎた。
土用太郎《どようたろう》は涼しい彼の家でも九十一度と云う未曾有の暑気であった。土用二郎の今日《きょう》は、朝来少し曇ったが、風と云うものはたと絶え、気温は昨日程上って居ないにも拘わらず、脂汗《あぶらあせ》が流れた。
昼飯を食って汗になったので、天日で湯と沸《わ》いて居る庭の甕《かめ》の水を浴び、籐《とう》の寝台に横になって新聞を見て居る内に、快《い》い心地になって眠って了うた。
一寝入して眼をさますと、室内が暗くなって居る。時計を見ると、まだ二時廻ったばかりである。縁側に出て見た。南の方は明るく、午後二時の日がかん/\照って居るが、西の方が大分暗い。近村の二本松を前景《ぜんけい》にして、いつも近くは八王子在の高尾小仏、遠くて甲州東部の連峰が見ゆるあたりだけ、卵色の横幕を延いた様に妙に黄色になり、其上層は人を脅《おど》す様な真黯《まっくら》い色をして居る。西北の空が真暗になって、甲州の空の根方のみ妙《みょう》に黄朱《おうしゅ》を抹《なす》った様になる時は、屹度何か出て来る。已《すで》に明治四十一年の春の暮、成人《おとな》の握掌大《にぎりこぶしほど》の素晴しい雹が降った時も然《そう》だった。斯う思いながら縁から見て居ると、頭上《ずじょう》の日はカン/\照りながら、西の方から涼しいと云うより寧《むしろ》冷《つめ》たい気が吻々《ふつふつ》と吹っかけて来る。彼の家から、東は東京、南は横浜、夕立は滅多に其方からは来ぬ。夕立は矢張西若くは北の山から来る。山から都へ行く途中、彼が住む野の村を過《よ》ぎるのである。
西は本気に曇った。雷様も真面目に鳴り出した。最早多摩川の向うは降って居るのであろう。彼は大急ぎで下りて、庭に乾してあった仕事着やはだし足袋《たび》を取り入れた。帰って北の窓をあけると、面《つら》が冷やりとした。北の空は一面鼠色になって居る。日傭《ひよ
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