子供の相手になって遊ぶ位が落である。儂は最初一の非望《ひぼう》を懐いて居た。其は吾家の燈火《あかり》が見る人の喜悦になれかしと謂《い》うのであった。多少気張っても見たが、其内くたびれ、気恥《きはず》かしくなって、儂《わし》は一切《いっさい》説法《せっぽう》をよした。而して吾儘一ぱいの生活をして居る。儂は告白する、儂は村の人にはなり切れぬ。此は儂の性分である。東京に居ても、田舎に居ても、何処までも旅《たび》の人、宿れる人、見物人なのである。然しながら生年百に満たぬ人《ひと》の生《いのち》の六年は、決して短い月日では無い。儂は其六年を已に村に過して居る。儂が村の人になり切れぬのは事実である。然し儂が少しも村を愛《あい》しないと云うのは嘘《うそ》である。ちと長い旅行でもして帰って来る姿《すがた》を見かけた近所の子供に「何処《どけ》へ往ったンだよゥ」と云われると、油然《ゆうぜん》とした嬉しさが心の底《そこ》からこみあげて来る。
 東京が大分《だいぶ》攻め寄せて来た。東京を西に距《さ》る唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさす潮《しお》ひく汐《しお》の余波が村に響いて来るのは自然である。東京で瓦斯を使う様《よう》になって、薪の需用が減った結果か、村の雑木山が大分|拓《ひら》かれて麦畑《むぎばたけ》になった。道側の並木の櫟《くぬぎ》楢《なら》なぞ伐られ掘られて、短冊形の荒畑《あらばた》が続々出来る。武蔵野の特色なる雑木山を無惨※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《むざむざ》拓かるゝのは、儂にとっては肉を削《そ》がるゝ思《おもい》だが、生活がさすわざだ、詮方《せんかた》は無い。筍が儲かるので、麦畑を潰して孟宗藪《もうそうやぶ》にしたり、養蚕《ようさん》の割が好いと云って桑畑が殖《ふ》えたり、大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、要するに曩時《むかし》の純農村は追々都会附属の菜園になりつゝある。京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴した。儂が最初買うた地所は坪四十銭位であったが、此頃は壱円以上二円も其上もする様になった。地所買いも追々入り込む。儂自身東京から溢れ者の先鋒でありながら、滅多な東京者に入り込《こ》まれてはあまり嬉しい気もちもせぬ。洋服、白足袋の男なぞ工場の地所見に来たりするのを傍見《わきみ》する毎に
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