。生籬の萩が葉を見て花を見てあとは苅《か》られて萩籬の料になったり、林の散歩にぬいて来て捨植《すてうえ》にして置いた芽生の山椒が一年中の薬味《やくみ》になったり、構わずに置く孟宗竹の筍《たけのこ》が汁の実になったり、杉籬の剪《はさ》みすてが焚附《たきつけ》になり、落葉の掃き寄せが腐って肥料になるも、皆時の賜物《たまもの》である。追々と植込んだ樹木が根づいて独立が出来る様になり、支えの丸太が取り去られる。移転の秋坊主になる程苅り込んで非常の労力を以て隣村から移植《いしょく》し、中一年を置いてまた庭の一隅《いちぐう》へ移《うつ》し植えた二尺八寸|廻《まわ》りの全手葉椎《マテバシイ》が、此頃では梢の枝葉も蕃茂《はんも》して、何時花が咲いたか、つい此程|内《うち》の女児が其下で大きな椎の実を一つ見つけた。と見て、妻が更に五六|粒《つぶ》拾った。「椎が実《な》った! 椎が実った!」驩喜《かんき》の声が家に盈《み》ちた。田舎住居は斯様な事が大《たい》した喜の原になる。一日一日の眼には見えぬが、黙って働く自然の力をしみ/″\感謝せずには居られぬ。儂が植えた樹木は、大抵《たいてい》根づいた。儂自身も少しは村に根を下《おろ》したかと思う。
三
少しはと儂は云うた。実は六年村に住んでもまだ村の者になり切れぬのである。固有の背水癖で、最初|戸籍《こせき》までひいて村の者になったが、過る六年の成績を省《かえりみ》ると、儂自身もあまり良い村民であったと断言は出来ない。吉凶の場合、兵隊送迎は別として、村の集会なぞにも近来滅多に出ぬ。村のポリチックスには無論超然主義を執る。燈台下暗くして、東京近くの此村では、青年会が今年はじめて出来、村の図書館は一昨年やっと出来た。儂は唯傍観して居る。郡教育会、愛国婦人会、其他一切の公的性質を帯びた団体加入の勧誘は絶対的に拒絶する。村の小さな耶蘇教会にすらも殆《ほとん》ど往《い》かぬ。昨年まで年に一回の月番役を勤めたが、月番の提灯を預《あずか》ったきりで、一切の事務は相番《あいばん》の肩に投げかけるので、皆迷惑したと見えて、今年から月番を諭旨免職になった。儂自身の眼から見る儂は、無月給の別荘番、墓掃除せぬ墓守、買って売る事をせぬ植木屋の亭主、位なもので、村の眼からは、儂は到底一個の遊び人である。遊人の村に対する奉公は、盆正月に近所の若い者や女
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