か》を買うて来て、川に浸《ひた》して置いて食ったりした。余は今記念の為に、川に下りて川水の中から赤い石と白い石とを拾《ひろ》った。清滝川は余にとりて思出《おもいで》多い川である。栂尾に居た年から八年程後、斯少し下流|愛宕《あたご》の麓《ふもと》清滝の里に、余は脚気《かっけ》を口実に、実は学課をなまけて、秋の一月を遊び暮らし、ミゼラブルばかり読んで居たことがある。
栂の尾から余等は広沢《ひろさわ》の池を経《へ》て嵐山に往った。広沢の池の水が乾《ほ》されて、鮒《ふな》や、鰌《どじょう》が泥の中にばた/\して居た。
嵐山の楓は高尾よりもまだ早かった。嵐山其ものと桂川《かつらがわ》とは旧に仍って美しいものであったが、川の此岸《こなた》には風流に屋根は萩《はぎ》で葺《ふ》いてあったが自働電話所が出来たり、電車が通い、汽車が通い、要するに殺風景《さっぷうけい》なものになり果てた。最早三船の才人《さいじん》もなければ、小督《こごう》や祇王《ぎおう》祇女|仏御前《ほとけごぜん》もなく、お半長右衛門すらあり得ない。
「暮れて帰れば春の月」と蕪村《ぶそん》の時代は詩趣満々《ししゅまんまん》であった太秦《うずまさ》を通って帰る車の上に、余は満腔《まんこう》の不平を吐《は》く所なきに悶々《もんもん》した。
斯く云う自分も其仲間だが、何故《なぜ》我日本国民は斯く一途《いちず》になるであろう乎。彼は中々感服家で、理想実行家である。趣味の民かと思うたら、中々以て実利実功の民である。東叡山を削平《さくへい》して、不忍《しのばず》の池を埋めると意気込み、西洋人の忠告によって思いとまった日本人は、其功利の理想を盛に上方《かみがた》に実行して居る。億万円にも代えられぬ東山の胴《どう》をくりぬいて琵琶湖の水を引張《ひっぱ》って見たり、鴨東《おうとう》一帯を煙と響《おと》と臭《におい》に汚《けが》してしまったり、狭《せま》い町内に殺人電車をがたつかせたり、嵐山へ殺風景を持込《もちこ》んだり、高尾の山の中まで水力電気でかき廻《ま》わしたり、努力、実益、富国、なんかの名の下に、物質的|偏狂人《へんきょうじん》の所為《しょい》を平気にして居る。心ある西洋人は何と見るだろう乎《か》。
京都、奈良、伊勢、出来ることなら須磨明石舞子をかけて、永久日本の美的博物館たらしむ可きで、其処《そこ》に煙突の一本も能う可く
前へ
次へ
全342ページ中335ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング