歳の少年が仙台で将軍の応接間《おうせつま》の椅子に先ず腰かけて「馬鹿ッ!」と大喝《だいかつ》されてから、二十八歳の休職士官が失意失恋故山に悶死《もんし》するまで、其単純な眼に映《えい》じた第一印象の実録である。固より将軍夫妻は良平の恩人である為に、温かい感謝の膜《まく》を隔《へだ》てゝ見たところもある。然し彼は徹頭徹尾《てっとうてつび》単純にして偽《いつわ》ることを得為《えせ》ぬ男で、且如何なる場合にも見且感ずるを得る自然の芸術家であったことを忘れてはならぬ。余は寄生木によって、乃木大将夫妻をヨリ近く識り得た。
 篠原良平は「寄生木」の原稿を余に托し置いて、明治四十一年の秋悶死した。而して、恩人乃木将軍が其名を書いてくれた墓碣《ぼかつ》が故山に建てられた明治四十二年十二月小説寄生木が世に出た。即ち将軍は幕下《ばくか》の彼が為め死後の名を石に書き、彼は恩人の為に生前《せいぜん》の断片的記伝を紙の上に立てた訳《わけ》である。
 余は寄生木を乃木大将に贈呈《そうてい》しなかった。然し伝聞《でんぶん》する処によれば、将軍夫妻は読んだそうだ。将軍は巻中にある某の学資金《がくしきん》は某大佐に渡したかと夫人に問い、夫人が渡しましたと答えた事、夫人は通読し終って、著者は一度も材料の為に訪われもしなかったに、よくも斯く精確《せいかく》に書かれた、と云われた事、を聞いた。精確な筈《はず》だ、記憶の好《い》い本人良平が命《いのち》がけで書いたのである。余は将軍夫妻の感想を聞く機会を有《も》たなかった。然しながら寄生木を読んだ将軍夫妻は、生前《せいぜん》顔を合わすれば棒立《ぼうだち》に立ってよくは口もきけず、幼年学校でも士官学校でも学科はなまけ、病気ばかりして、晩年には殊に謀叛気《むほんぎ》を見せて、恩義を弁《わきま》えたらしくもなかった篠原良平が、案外深い感謝あり、理解あり、同情あり、而して個性あり、痛切な苦悶あり、要するに一個真面目の霊魂《れいこん》であったことを今更の様に発見したであろう。兎に角篠原良平の死と「寄生木」とが、寂《さび》しい将軍の晩年に於てまた一の慰藉《いしゃ》となったことは、察《さっ》するに難からぬ。篠原良平が「寄生木」を遺《のこ》した目的の一は達せられたのである。
 余は篠原良平の晩年に於て、剣を抛《なげう》つ可く彼に勧告し、彼を乃木将軍から奪《うば》う可く多少の
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