し》を白き柩車《きうしや》に乗り換へて、今こそ君は浄土《きよつち》の西の京へと還《かへ》り玉はめ。
[#地から3字上げ](大正元年 九月十三日)
[#改ページ]
乃木大将夫妻自刃
九月十五日、御大葬《ごたいそう》の記事を見るべく新聞を披《ひら》くと、忽《たちまち》初号活字が眼を射た。
[#ここから7字下げ]
乃木大将夫妻の自殺
[#ここで字下げ終わり]
余は息《いき》を飲んで、眼を数行の記事に走らした。
「尤だ、無理は無い、尤だ」
斯く※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《つぶや》きつゝ、余は新聞を顔に打掩《うちおお》うた。
*
日清戦争中、山地中将が分捕《ぶんどり》の高価の毛皮の外套を乃木少将に贈ったら、少将は、傷病兵《しょうびょうへい》にやってしまった。此事を新聞で読んだのが、乃木《のぎ》希典《まれすけ》に余のインテレストを持つ様になった最初であった。其れから明治廿九年乃木中将が台湾《たいわん》総督《そうとく》となる時、母堂が渡台の御暇乞に参内《さんだい》して、皇后陛下の御問に対し、姥《ばば》は台湾の土にならん為、忰《せがれ》の先途《せんど》を見届けん為に台湾に参《まい》ります、と御答え申上げたと云う記事は、また深く余の心に滲《し》みた。余は此母子が好《す》きになった。明治三十四年中、ゴルドン将軍伝を書く時、余はゴルドンを描《えが》く其原稿紙上に乃木将軍の面影《おもかげ》がちらり/\と徂《い》ったり徠《き》たりするを禁じ得なかった。
縁は異《い》なもので、ゴルドン伝を書いた翌々年「寄生木《やどりぎ》」の主人公から突然「寄生木」著作の事を委托《いたく》された。恩人たる乃木将軍の為めにと云う彼の辞《じ》であった。余は例に無く乗地《のりじ》になって引受けた。結果が小説寄生木である。
小説寄生木は、該書《がいしょ》の巻頭にも断《ことわ》って置いた通り、主人公にして原著者なる「篠原良平」の小笠原善平が「寄生木」で、厳密《げんみつ》なる意味に於て余の「寄生木」では無い。寄生木の大木将軍夫妻は、篠原良平の大木将軍夫妻で、余の乃木大将夫妻では無い。余は厳に原文に拠《よ》って、如何なる場合にも寸毫《すんごう》も余の粉飾《ふんしょく》塗抹《とまつ》を加えなかった。そこで、寄生木は、南部《なんぶ》の山中から駈《か》け出した十六
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