此洋服を着て甲州街道で新に買った肥桶を青竹《あおだけ》で担いで帰って来ると、八幡様に寄合をして居た村の衆《しゅう》がドッと笑った。引越後《ひっこしご》間《ま》もなく雪の日に老年の叔母が東京から尋ねて来た。其帰りにあまり路が悪《わる》いので、矢張此洋服で甲州《こうしゅう》街道《かいどう》まで車の後押しをして行くと、小供が見つけてわい/\囃《はや》し立てた。よく笑わるゝ洋服である。此洋服で、鍔広《つばびろ》の麦藁帽をかぶって、塚戸に酢《す》を買いに往ったら、小学校|中《じゅう》の子供が門口に押し合うて不思議な現象を眺めて居た。彼の好物《こうぶつ》の中に、雪花菜汁《おからじる》がある。此洋服着て、味噌漉《みそこし》持って、村の豆腐屋に五厘のおからを買いに往った時は、流石|剛《ごう》の者も髯と眼鏡《めがね》と洋服に対していさゝかきまりが悪かった。引越し当座は、村の者も東京人《とうきょうじん》珍《めず》らしいので、妻なぞ出かけると、女子供《おんなこども》が、
「おっかあ、粕谷の仙ちゃんのお妾《めかけ》の居た家《うち》に越して来た東京のおかみさんが通《とお》るから、出て来て見なァよゥ」
と、すばらしい長文句で喚《わめ》き立てゝ大騒《おおさわ》ぎしたものだ。
東京客が沢山《たくさん》来た。新聞雑誌の記者がよく田園生活の種取《たねと》りに来た。遠足半分《えんそくはんぶん》の学生も来た。演説依頼の紳士《しんし》も来た。労働最中に洋服でも着た立派な東京紳士が来ると、彼は頗得意であった。村人の居合わす処で其紳士が丁寧に挨拶《あいさつ》でもすると、彼はます/\得意であった。彼は好んで斯様な都の客にブッキラ棒の剣突《けんつく》を喰《く》わした。芝居気《しばいげ》も衒気《げんき》も彼には沢山にあった。華美《はで》の中に華美を得|為《せ》ぬ彼は渋い中に華美をやった。彼は自己の為に田園生活をやって居るのか、抑《そもそ》もまた人の為に田園生活の芝居をやって居るのか、分からぬ日があった。小《ちい》さな草屋のぬれ縁《えん》に立って、田圃《たんぼ》を見渡す時、彼は本郷座《ほんごうざ》の舞台から桟敷や土間を見渡す様な気がして、ふッと噴《ふ》き出す事さえもあった。彼は一時片時も吾を忘れ得なかった。趣味から道楽から百姓をする彼は、自己の天職が見ることと感ずる事と而して其れを報告するにあることを須臾《しゅゆ》も
前へ
次へ
全342ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング