》するのかと眼を瞠《みは》って眺《なが》めて居た。作ってある麦は、墓の向うの所謂《いわゆる》賭博《とばく》の宿の麦であった。彼は其一部を買って、邪魔《じゃま》になる部分はドシ/\青麦をぬいてしまい、果物好きだけに何よりも先ず水蜜桃を植えた。通りかゝりの百姓衆《ひゃくしょうしゅう》に、棕櫚縄《しゅろなわ》を蠅頭《はえがしら》に結ぶ事を教わって、畑中に透籬《すいがき》を結い、風よけの生籬《いけがき》にす可く之に傍《そ》うて杉苗を植えた。無論必要もあったが、一は面白味から彼はあらゆる雑役《ぞうえき》をした。あらゆる不便と労力とを歓迎した。家から十丁程はなれた塚戸《つかど》の米屋が新村入を聞きつけて、半紙一帖持って御用聞《ごようき》きに来た時、彼はやっと逃げ出した東京が早や先き廻りして居たかとばかりウンザリして甚《はなはだ》不興気《ふきょうげ》な顔をした。
 手脚を少し動かすと一廉《いっかど》勉強した様で、汚ないものでも扱うと一廉謙遜になった様で、無造作に応対をすると一廉人を愛するかの様で、酒こそ飲まね新生活の一盃機嫌《いっぱいきげん》で彼はさま/″\の可笑味を真顔でやってのけた。東京に居た頃から、園芸好きで、糞尿を扱う事は珍らしくもなかったが、村入しては好んで肥桶を担《かつ》いだ。最初はよくカラカフス無しの洋服を着て、小豆革《あずきかわ》の帯をしめた。斯革の帯は、先年神田の十文字商会で六連発の短銃を買った時手に入れた弾帯で、短銃其ものは明治三十八年の十二月日露戦役果て、満洲軍総司令部凱旋の祝砲を聞きつゝ、今後は断じて護身の武器を帯びずと心に誓って、庭石にあてゝ鉄槌でさん/″\に打破《うちこわ》してしまったが、帯だけは罪が無いとあって今に残って居るのであった。洋服にも履歴がある。そも此洋服は、明治三十六年日蔭町で七円で買った白っぽい綿セルの背広《せびろ》で、北海道にも此れで行き、富士《ふじ》で死にかけた時も此れで上り、パレスチナから露西亜《ろしあ》へも此れで往って、トルストイの家でも持参《じさん》の袷《あわせ》と此洋服を更代《こうたい》に着たものだ。西伯利亜鉄道《シベリアてつどう》の汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、流石《さすが》無頓着《むとんちゃく》な同室の露西亜の大尉も技師も、眼を円《まる》く鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物《しろもの》である。
前へ 次へ
全342ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング