った。
屋敷のあとは鋤《す》きかえされて、今は陸稲《おかぼ》が緑々《あおあお》と茂って居る。
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わかれの杉
彼の家から裏の方へ百歩往けば、鎮守八幡《ちんじゅはちまん》である。型の通りの草葺の小宮《こみや》で、田圃《たんぼ》を見下ろして東向きに立って居る。
月の朔《ついたち》には、太鼓が鳴って人を寄せ、神官が来て祝詞《のりと》を上げ、氏子《うじこ》の神々達が拝殿に寄って、メチールアルコールの沢山《たくさん》入《はい》った神酒を聞召し、酔って紅くなり給う。春の雹祭《ひょうまつり》、秋の風祭《かざまつり》は毎年の例である。彼が村の人になって六年間に、此八幡で秋祭りに夜芝居が一度、昼神楽《ひるかぐら》が一度あった。入営除隊の送迎は勿論、何角の寄合事《よりあいごと》があれば、天候季節の許す限りは此処の拝殿《はいでん》でしたものだ。乞食が寝泊りして火の用心が悪い処から、つい昨年になって拝殿に格子戸《こうしど》を立て、締《しま》りをつけた。内務省のお世話が届き過ぎて、神社合併が兎《と》の、風致林《ふうちりん》が角《こう》のと、面倒な事だ。先頃も雑木《ぞうき》を売払って、あとには杉か檜苗《ひのきなえ》を植えることに決し、雑木を切ったあとを望の者に開墾《かいこん》させ、一時豌豆や里芋を作らして置いたら、神社の林地なら早々《そうそう》木を植えろ、畑にすれば税を取るぞ、税を出さずに畑を作ると法律があると、其筋から脅《おど》されたので、村は遽《あわ》てゝ総出で其部分に檜苗を植えた。
粕谷八幡はさして古《ふる》くもないので、大木と云う程の大木は無い。御神木と云うのは梢《うら》の枯《か》れた杉の木で、此は社《やしろ》の背《うしろ》で高処だけに諸方から目標《めじるし》になる。烏がよく其枯れた木末《こずえ》にとまる。
宮から阪の石壇《いしだん》を下りて石鳥居を出た処に、また一本百年あまりの杉がある。此杉の下から横長い田圃《たんぼ》がよく見晴される。田圃を北から南へ田川が二つ流れて居る。一筋の里道が、八幡横から此大杉の下を通って、直ぐ北へ折れ、小さな方の田川に沿うて、五六十歩往って小さな石橋《いしばし》を渡り、東に折れて百歩余往ってまた大きな方の田川に架した欄干《らんかん》無しの石橋を渡り、やがて二つに分岐《ぶんき》して、直な方は人家の木立の間を村に隠《かく》れ、一は人家の檜林に傍《そ》うて北に折れ、林にそい、桑畑《くわばたけ》にそい、二丁ばかり往って、雑木山の端《はし》からまた東に折れ、北に折れて、六七丁往って終に甲州街道に出る。此雑木山の曲《まが》り角《かど》に、一本の檜があって、八幡杉の下からよく見える。
村居六年の間、彼は色々の場合に此杉の下《した》に立って色々の人を送った。彼《かの》田圃を渡《わた》り、彼雑木山の一本檜から横に折れて影の消ゆるまで目送《もくそう》した人も少くはなかった。中には生別《せいべつ》即《そく》死別《しべつ》となった人も一二に止まらない。生きては居ても、再び逢《あ》うや否疑問の人も少くない。此杉は彼にとりて見送《みおくり》の杉、さては別れの杉である。就中彼はある風雪の日こゝで生別の死別をした若者を忘るゝことが出来ぬ。
其は小説|寄生木《やどりぎ》の原著者篠原良平の小笠原《おがさわら》善平《ぜんぺい》である。明治四十一年の三月十日は、奉天決勝《ほうてんけっしょう》の三週年。彼小笠原善平が恩人乃木将軍の部下として奉天戦に負傷したのは、三年前の前々日《ぜんぜんじつ》であった。三月十日は朝からちら/\雪が降って、寒い寂《さび》しい日であった。突然彼小笠原は来訪した。一年前、此家の主人《あるじ》は彼小笠原に剣を抛《なげう》つ可く熱心《ねっしん》勧告《かんこく》したが、一年後の今日、彼は陸軍部内の依怙《えこ》情実に愛想《あいそう》をつかし疳癪《かんしゃく》を起して休職願を出し、北海道から出て来たので、今後は外国語学校にでも入って露語《ろご》をやろうと云って居た。陸軍を去る為に恩人の不興を買い、恋人との間も絶望の姿となって居ると云うことであった。雪は終日降り、夜すがら降った。主は平和問題、信仰問題等につき、彼小笠原と反覆《はんぷく》討論《とうろん》した。而して共に六畳に枕《まくら》を並べて寝たのは、夜の十一時過ぎであった。
明くる日、午前十時頃彼は辞し去った。まだ綿の様《よう》な雪がぼったり/\降って居る。此辺では珍らしい雪で、一尺の上《うえ》積《つも》った。彼小笠原は外套の頭巾《ずきん》をすっぽりかぶって、薩摩下駄をぽっくり/\雪に踏《ふ》み込みながら家《うち》を出《で》て往った。主は高足駄を穿《は》き、番傘《ばんがさ》をさして、八幡下別れの杉まで送って往った。
「じゃァ、しっかりやり玉《たま》え
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