「色々お世話でした」
 傘を傾けて杉の下に立って見て居ると、また一しきり烈《はげ》しく北から吹きつくる吹雪《ふぶき》の中を、黒い外套姿が少し前俛《まえこご》みになって、一足ぬきに歩いて行く。第一の石橋を渡る。やゝあって第二の石橋を渡る。檜林について曲る。段々小さくなって遠見の姿は、谷一ぱいの吹雪に消えたり見えたりして居たが、一本檜の処まで来ると、見かえりもせず東へ折《お》れて、到頭《とうとう》見えなくなってしもうた。
 半歳《はんとし》の後、彼は郷里の南部《なんぶ》で死んだ。
 漢人の詩に、
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歩出《ほしていづ》城東門《じやうとうのもん》、     遙望《はるかにのぞむ》江南路《こうなんのみち》、
前日《ぜんじつ》風雪中《ふうせつのうち》、     故人《こじん》従此去《これよりさる》、
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 別れの杉の下に立って田圃を見渡す毎に、吹雪の中の黒い外套姿が今も彼の眼さきにちらつく。
[#改ページ]

     白

       一

 彼の前生は多分《たぶん》犬《いぬ》であった。人間の皮をかぶった今生にも、彼は犬程|可愛《かあい》いものを知らぬ。子供の頃は犬とばかり遊んで、着物は泥まみれになり、裾《すそ》は喰《く》いさかれ、其様《そん》なに着物を汚すならわたしは知らぬと母に叱《しか》られても、また走り出ては犬と狂うた。犬の為には好きな甘《うま》い物《もの》も分けてやり、小犬の鳴き声を聞けばねむたい眼を摩って夜半《よなか》にも起きて見た。明治十年の西郷戦争《さいごうせんそう》に、彼の郷里の熊本は兵戈《へいか》の中心となったので、家を挙《あ》げて田舎に避難したが、オブチと云う飼犬のみは如何しても家《うち》を守って去らないので、近所の百姓に頼んで時々食物を与えてもらうことにして本意ない別を告げた。三月程して熊本城の包囲が解け、薩軍は山深く退いたので、欣々と帰って見ると、オブチは彼の家に陣《じん》どった薩摩健男《さつまたけお》に喰われてしまって、頭だけ出入の百姓によって埋葬されて居た。彼の絶望と落胆は際限が無かった。久しぶりに家《うち》に還《かえ》って、何の愉快もなく、飯も喰わずに唯|哭《なげ》いた。南洲《なんしゅう》の死も八千の子弟の運命も彼には何《なん》の交渉もなく、西南役は何よりも彼の大切なオブチをとり去ったものとして彼に記憶されるのであった。
 村入して間もなく、ある夜|先家主《せんやぬし》の大工がポインタァ種の小犬を一疋抱いて来た。二子の渡《わたし》の近所から貰って来たと云う。鼻尖《はなさき》から右の眼にかけ茶褐色の斑《ぶち》がある外は真白で、四肢は将来の発育を思わせて伸び/\と、気前《きまえ》鷹揚《おうよう》に、坊ちゃんと云った様な小犬である。既に近所からもらった黒い小犬もあるので、二の足踏んだが、折角貰って来てくれたのを還えすも惜しいので、到頭貰うことにした。今まで畳《たたみ》の上に居たそうな。早速《さっそく》畳に放尿《いばり》して、其晩は大きな塊《かたまり》の糞を板の間にした。
 新来の白《しろ》に見かえられて、間もなく黒《くろ》は死に、白の独天下となった。畳から地へ下ろされ、麦飯《むぎめし》味噌汁《みそしる》で大きくなり、美しい、而して弱い、而して情愛の深い犬になった。雄《おす》であったが、雌《めす》の様な雄であった。
 主夫妻《あるじふさい》が東京に出ると屹度|跟《つ》いて来る。甲州《こうしゅう》街道《かいどう》を新宿へ行く間《あいだ》には、大きな犬、強い犬、暴《あら》い犬、意地悪い犬が沢山居る。而してそれを嗾《け》しかけて、弱いもの窘《いじ》めを楽む子供もあれば、馬鹿な成人《おとな》もある。弱い白は屹度|咬《か》まれる。其れがいやさに隠れて出る様《よう》にしても、何処からか嗅ぎ出して屹度跟いて来る。而して咬まれる。悲鳴をあげる。二三疋の聯合軍に囲まれてべそをかいて歯を剥《む》き出す。己れより小さな犬にすら尾を低《た》れて恐れ入る。果ては犬の影され見れば、己《われ》ところんで、最初から負けてかゝる。それでも強者の歯をのがれぬ場合がある。最早《もう》懲《こ》りたろうと思うて居ると、今度出る時は、又候《またぞろ》跟いて来る。而して往復途中の出来事はよく/\頭に残ると見えて、帰ったあとで樫《かし》の木の下にぐったり寝ながら、夢中で走るかの様に四肢《しし》を動かしたり、夢中で牙をむき出しふアッと云ったりする。
 弱くても雄は雄である。交尾期になると、二日も三日も影を見せぬことがあった。てっきり殺されたのであろうと思うて居ると、村内唯一の牝犬《めいぬ》の許《もと》に通うて、他の強い大勢の競争者に噛まれ、床の下に三日|潜《もぐ》り込んで居たのであった。武智十次郎ならねども、美しい
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