白が血だらけになって、蹌踉《よろよろ》と帰って来る姿を見ると、生殖の苦を負《お》う動物の運命を憐まずには居られなかった。一日其牝犬がひょっくり遊びに来た。美しいポインタァ種の黒犬で、家の人が見廻《みまわ》りして来いと云えば、直ぐ立って家の周囲《まわり》を巡視し、夜中警報でもある時は吾体を雨戸にぶちつけて家の人に知らす程怜悧の犬であった。其犬がぶらりと遊びに来た。而して主人《しゅじん》に愛想をするかの様にずうと白の傍に寄った。あまりに近く寄られては白は眼を円くし、据頸《すえくび》で、甚《はなはだ》固くなって居た。牝犬はやがて往きかけた。白は纏綿《てんめん》として後になり先きになり、果ては主人の足下に駆けて来て、一方の眼に牝犬を見、一方の眼に主人を見上げ、引きとめて呉れ、媒妁《なかだち》して下さいと云い貌《がお》にクンクン鳴いたが、主人はもとより如何ともすることが出来なかった。
其秋白の主人《あるじ》は、死んだ黒のかわりに彼《かの》牝犬の子の一疋をもらって来て矢張《やはり》其《そ》れを黒と名づけた。白は甚《はなはだ》不平《ふへい》であった。黒を向うに置いて、走りかゝって撞《どう》と体当《たいあた》りをくれて衝倒《つきたお》したりした。小さな黒は勝気な犬で、縁代の下なぞ白の自由に動《うご》けぬ処にもぐり込んで、其処《そこ》から白に敵対して吠えた。然し両雄《りょうゆう》並び立たず、黒は足が悪くなり、久しからずして死んだ。而《しか》して再《ふたた》び白の独天下になった。可愛《かあい》がられて、大食して、弱虫の白はます/\弱く、鈍《どん》の性質はいよ/\鈍になった。よく寝惚《ねぼ》けて主人《しゅじん》に吠えた。主人と知ると、恐れ入って、膝行頓首《しっこうとんしゅ》、亀《かめ》の様に平太張りつゝすり寄って詫《わ》びた。わるい事をして追かけられて逃げ廻るが、果ては平身低頭《へいしんていとう》して恐る/\すり寄って来る。頭を撫でると、其手を軽く啣《くわ》えて、衷心を傾けると云った様にはアッと長い/\溜息《ためいき》をついた。
二
死んだ黒《くろ》の兄《あに》が矢張黒と云った。遊びに来ると、白《しろ》が烈しく妬《ねた》んだ。主人等が黒に愛想をすると、白は思わせぶりに終日《しゅうじつ》影を見せぬことがあった。
甲州《こうしゅう》街道《かいどう》に獅子毛天狗顔をした意地悪い犬が居た。坊ちゃんの白を一方《ひとかた》ならず妬み憎んで、顔さえ合わすと直ぐ咬《か》んだ。ある時、裏の方で烈《はげ》しい犬の噛み合う声がするので、出《で》て見ると、黒と白とが彼|天狗《てんぐ》犬《いぬ》を散々《さんざん》咬んで居た。元来平和な白は、卿《おまえ》が意地悪だからと云わんばかり恨《うら》めしげな情なげな泣き声をあげて、黒と共に天狗犬に向うて居る。聯合軍に噛まれて天狗犬は尾を捲き、獅子毛を逆立《さかだ》てゝ、甲州街道の方に敗走するのを、白の主人は心地よげに見送《みおく》った。
其後白と黒との間に如何《どん》な黙契が出来たのか、白はあまり黒の来遊《らいゆう》を拒まなくなった。白を貰《もら》って来てくれた大工が、牛乳《ぎゅうにゅう》車《ぐるま》の空箱を白の寝床に買うて来てくれた。其白の寝床に黒が寝そべって、尻尾ばた/\箱の側をうって納《おさ》まって居ることもあった。界隈《かいわい》に野犬《やけん》が居て、あるいは一疋、ある時は二疋、稲妻《いなずま》強盗《ごうとう》の如く横行し、夜中鶏を喰ったり、豚を殺したりする。ある夜、白が今死にそうな悲鳴をあげた。雨戸《あまど》引きあけると、何ものか影の如く走《は》せ去《さ》った。白は後援を得てやっと威厳《いげん》を恢復し、二足三足あと追《おい》かけて叱《しか》る様に吠えた。野犬が肥え太った白を豚と思って喰いに来たのである。其様な事が二三度もつゞいた。其れで自衛の必要上白は黒と同盟を結んだものと見える。一夜《いちや》庭先《にわさき》で大騒ぎが起った。飛び起きて見ると、聯合軍は野犬二疋の来襲に遇うて、形勢頗る危殆《きたい》であった。
白と黒は大の仲好《なかよし》になって、始終共に遊んだ。ある日近所の与右衛門《よえもん》さんが、一盃機嫌で談判《だんぱん》に来た。内の白と彼《かの》黒とがトチ狂うて、与右衛門の妹婿武太郎が畑《はたけ》の大豆を散々踏み荒したと云うのである。如何して呉《く》れるかと云う。仕方が無いから損害を二円払うた。其後黒の姿はこっきり見えなくなった。通りかゝりの武太《ぶた》さんに問うたら、与右衛門さんの懸合で、黒の持主の源さん家《とこ》では余儀なく作男《さくおとこ》に黒を殺させ、作男が殺して煮《に》て食うたと答えた。うまかったそうです、と武太さんは紅い齦《はぐき》を出してニタ/\笑った。
ある日見知らぬ
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