かみさんが来て、此方《こちら》の犬に食われましたと云って、汚ない風呂敷から血だらけの軍鶏《しゃも》の頭と足を二本出して見せた。内の犬は弱虫で、軍鶏なぞ捕る器量はないが、と云いつゝ、確に此方の犬と認《みと》めたのかときいたら、かみさんは白い犬だった、聞けば粕谷《かすや》に悪《わり》イ犬が居るちゅう事だから、其《そ》れで来たと云うのだ。折よく白が来た。かみさんは、これですか、と少し案外の顔をした。然し新参者《しんざんもの》の弱身で、感情を傷《そこな》わぬ為|兎《と》に角《かく》軍鶏の代壱円何十銭の冤罪費を払った。彼《かれ》は斯様な出金を東京税《とうきょうぜい》と名づけた。彼等はしば/\東京税を払うた。
白の頭上には何時となく呪咀《のろい》の雲がかゝった。黒が死んで、意志の弱い白はまた例の性悪《しょうわる》の天狗犬と交る様になった。天狗犬に嗾《そそのか》されて、色々の悪戯も覚えた。多くの犬と共に、近在《きんざい》の豚小屋を襲うと云う評判も伝えられた。遅鈍な白《しろ》は、豚小屋襲撃引揚げの際逃げおくれて、其|着物《きもの》の著《いちじる》しい為に認められたのかも知れなかった。其内村の収入役の家で、係蹄《わな》にかけて豚とりに来た犬を捕ったら、其れは黒い犬だったそうで、さし当《あた》り白の冤は霽《は》れた様《よう》なものゝ、要するに白の上に凶《あし》き運命の臨んで居ることは、彼の主人の心に暗い翳《かげ》を作った。
到頭白の運命の決する日が来た。隣家《りんか》の主人が来て、数日来猫が居なくなった、不思議に思うて居ると、今しがた桑畑の中から腐りかけた死骸を発見した。貴家《おうち》の白と天狗犬とで咬み殺したものであろ、死骸を見せてよく白を教誡していただき度い、と云う意を述べた。同時に白が度々隣家の鶏卵を盗み食うた罪状も明らかになった。
最早詮方は無い。此まゝにして置けば、隣家は宥《ゆる》してくれもしようが、必《かならず》何処《どこ》かで殺さるゝに違いない。折も好し、甲州《こうしゅう》の赤沢君が来たので、甲州に連れて往ってもらうことにした。白の主人は夏の朝早く起きて、赤沢君を送りかた/″\、白を荻窪《おぎくぼ》の停車場《ていしゃば》まで牽《ひ》いて往った。千歳村《ちとせむら》に越した年の春もろうて来て、この八月まで、約一年半白は主人夫妻と共に居たのであった。主婦は八幡下まで送りに来て、涙を流して白に別れた。田圃を通って、雑木山《ぞうきやま》に入る岐《わか》れ道まで来た時、主人は白を抱き上げて八幡下に立って遙《はるか》に目送して居る主婦に最後の告別をさせた。白は屠所の羊の歩みで、牽かれてようやく跟《つ》いて来た。停車場前の茶屋で、駄菓子《だがし》を買うてやったが、白は食《く》おうともしなかった。貨物車の犬箱の中に入れられて、飯がわりの駄菓子を入れてやったのを見むきもせず、ベソをかきながら白は甲州へ往ってしもうた。
三
最初の甲州だよりは、白が赤沢君に牽かれて無事に其家に着いた事を報じた。第二信は、ある日白が縄をぬけて、赤沢君の家《うち》から約四里|甲府《こうふ》の停車場まで帰路《きろ》を探がしたと云う事を報じた。然《しか》し甲府からは汽車である。甲府から東へは帰り様がなかった。
赤沢君が白を連れて撮った写真を送ってくれた。眼尻が少し下《さが》って、口をあんとあいたところは、贔屓目《ひいきめ》にも怜悧な犬ではなかった。然し赤沢君の村は、他《ほか》に犬も居なかったので、皆に可愛がられて居ると云うことであった。
*
白が甲州に養《やしな》われて丁度一年目の夏、旧主人《きゅうしゅじん》夫妻《ふさい》は赤沢君を訪ねた。其《その》家《うち》に着いて挨拶して居ると庭に白の影が見えた。喫驚《びっくり》する程大きくなり、豚の様にまる/\と太って居る。「白」と声をかくるより早く、土足《どそく》で座敷に飛び上り、膝行《しっこう》匍匐《ほふく》して、忽ち例の放尿をやって、旧主人に恥をかゝした。其日は始終《しじゅう》跟《つ》いてあるき、翌朝山の上の小舎《こや》にまだ寝て居ると、白は戸の開《あ》くや否飛び込んで来て、蚊帳《かや》越《ご》しにずうと頭をさし寄せた。帰《かえ》りには、予め白を繋《つな》いであった。別《わかれ》に菓子なぞやっても、喰おうともしなかった。而《しか》して旧主人夫妻が帰った後、彼等が馬車に乗った桃林橋《とうりんきょう》の辺まで、白《しろ》は彼等の足跡を嗅《か》いで廻《まわ》って、大騒ぎしたと云うことであった。
翌年の春、夫妻は二たび赤沢君《あかざわくん》を訪うた。白は喜のあまり浮かれて隣家《りんか》の鶏を追廻し、到頭一羽を絶息させ、而《しか》して旧主人《きゅうしゅじん》にまた損害を払わせた。
其
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