太郎は、五宿へ往って女郎買《じょろうかい》ばかしするやくざ者《もの》で」と其亭主の事を訴える。武太さんは村で折紙《おりがみ》つきのヤクザ者である。武太さんに同情する者は、久《ひさ》さんのおかみばかりである。「彼様な女房《にょうぼ》持ってるンだもの」と、武太さんを人が悪く言う毎《ごと》に武太さんを弁護する。然し武太さんの同情者が乏しい様に、久さんのおかみもあまり同情者を有たなかった。唯村の天理教信者のおかず媼《ばあ》さんばかりは、久さんのおかみを済度《さいど》す可く彼女に近しくした。
稲次郎のふる巣に入り込んだ新村入は、隣だけに此莫連女の世話になることが多かった。彼女も、久さんも、唖の子も、最初はよく小使銭取りに農事の手伝に来た。此方からも麦扱《むぎこ》きを借りたり、饂飩粉を挽いてもらったり、豌豆《えんどう》や里芋を売ってもらったりした。おかみも小金《こがね》を借《か》りに来たり張板を借《か》りに来たりした。其子供もよく遊びに来た。蔭でおかみも機嫌次第でさま/″\悪口を云うたが、顔を合わすと如才なく親切な口をきいた。彼女の家に集《つど》う博徒《ばくと》の若者が、夏の夜帰《よがえ》りによく新村入の畑に踏《ふ》み込《こ》んで水瓜を打割って食ったりした。新村入は用があって久さんの家《うち》に往く毎に胸を悪くして帰った。障子《しょうじ》は破れたきり張ろうとはせず、畳《たたみ》は腸《はらわた》が出たまゝ、壁《かべ》は崩《くず》れたまゝ、煤《すす》と埃《ほこり》とあらゆる不潔《ふけつ》に盈《みた》された家の内は、言語道断の汚なさであった。おかみはよく此《この》中《なか》で蚕に桑をくれたり、大肌《おおはだ》ぬぎになって蕎麦粉を挽いたり、破れ障子の内でギッチョンと響《おと》をさせて木綿機を織ったり、大きな眼鏡《めがね》をかけて縁先《えんさき》で襤褸《ぼろ》を繕《つくろ》ったりして居た。
五
新村入が村に入ると直ぐ眼についた家が二つあった。一は久さんの家《うち》で、今一つは品川堀の側にある店《みせ》であった。其店には賭博《ばくち》をうつと云う恐い眼をした大酒呑の五十余のおかみさんと、白粉を塗った若い女が居て、若い者がよく酒を飲んで居た。其後大酒呑のおかみさんは頓死して店は潰《つぶ》れ、目ざす家は久さんの家だけになった。己《わ》が住む家の歴史を知るにつけ、新村入は彼の前に問題として置かれた久さんの家を如何にす可きかと思い煩《わずろ》うた。色々の「我」が寄って形成《けいせい》して居る彼家は、云わば大《おお》きな腫物《はれもの》である。彼は眼の前に臭《くさ》い膿《うみ》のだら/\流れ出る大きな腫物を見た。然し彼は刀を下す力が無い。彼は久しく機会を待った。
ある夏の夕、彼は南向きの縁に座って居た。彼の眼の前には蝙蝠色《こうもりいろ》の夕闇が広がって居た。其闇を見るともなく見て居ると、闇の中から湧《わ》いた様に黒い影がすうと寄って来た。ランプの光の射す処まで来ると、其れは久さんのおかみであった。彼は畳の上に退《しざ》り、おかみは縁に腰かけた。
「旦那様、新聞に出て居りましてすか」
と息をはずませて彼女は云った。それは新宿で、床屋の亭主が、弟と密通した妻と弟とを剃刀《かみそり》で殺害した事を、彼女は何処《どこ》からか聞いたのである。「余りだと思います」と彼女は剃刀の刃を己《わ》が肉《にく》にうけたかの様に切ない声で云った。
聞く彼の胸はドキリとした。今だ、とある声が囁《ささや》いた。彼はおかみに向うて、巳代公は如何して唖になったか、と訊《き》いた。おかみは、巳代が三歳《みっつ》までよく口をきいて居たら、ある日「おっかあ、お湯が飲みてえ」と云うたを最後の一言《いちごん》にして、医者にかけても薬を飲ましても甲斐が無く唖になって了うた、と言った。何の故か知って居るか、と畳みかけて訊くと、其頃|飼《か》った牛を不親切からつい殺してしまいました、其牛の祟《たた》りだと人が申すので、色々信心もして見ましたが、甲斐がありませんでした、と云う。巳代公ばかりじゃ無い、亥之公《いのこう》が盲になったのは如何したものだ、と彼は肉迫した。而して彼はさし俯《うつむ》くおかみに向うて、此《この》家《うち》の最初の主の稲次郎と密通以来今日に到るまで彼女の不届《ふとどき》の数々を烈しく責めた。彼女は終まで俯いて居た。
それから二三日|経《た》つと、彼は屋敷下を通る頬冠《ほおかむり》の丈高い姿を認めた。其れが博徒の親分であることを知った彼は、声をかけて無理に縁側に引張《ひっぱ》った。満地の日光を樫の影が黒《くろ》く染《そ》めぬいて、あたりには人の影《かげ》もなかった。彼は親分に向って、彼の体力、智慧、才覚、根気、度胸、其様なものを従来私慾の為にのみ使う不埒《ふらち
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