を馬鹿にした。久さんのおかみは「良人《やど》が正直《しょうじき》だから、良人が正直だから」と流石に馬鹿と云いかねて正直と云った。東隣のおとなしい媼《ばあ》さんも「久さん、お広さんは今何してるだンべ?」などからかった。久さんは怪訝《けげん》な眼を上げて、「え?」と頓狂《とんきょう》な声を出す。「何さ、今しがたお広さんがね、甜瓜《まくわ》を食《く》ってたて事よ、ふ※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]」と媼さんは笑った。久さんの家には、久さんの老母があった。然し婆《ばあ》さんは※[#「女+息」、第4水準2−5−70]の乱行《らんぎょう》家の乱脈《らんみゃく》に対して手も口も出すことが出来なかった。若い時大勢の奉公人を使っておかみさんと立てられた彼女は、八十近くなって眼液《めしる》たらして竈《へっつい》の下を焚《た》いたり、海老《えび》の様な腰をしてホウ/\云いながら庭を掃《は》いたり、杖にすがって※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》の命のまに/\使《つか》いあるきをしたり、其《そ》れでも其《その》無能《むのう》の子を見すてゝ本家に帰ることを得《え》為《せ》なかった。それに婆《ばあ》さんは亡くなった爺さん同様酒を好んだ。本家の婿は耶蘇教信者で、一切酒を入れなかった。久さんのおかみは時々姑に酒を飲ました。白髪頭《しらがあたま》の婆さんは、顔を真赤にして居ることがあった。彼女は時々吾儘を云う四十男の久さんを、七つ八つの坊ちゃんかなんどの様に叱った。尻切《しりきれ》草履突かけて竹杖《たけづえ》にすがって行く婆さんの背《うしろ》から、鍬《くわ》をかついだ四十男の久さんが、婆さんの白髪を引張ったりイタズラをして甘えた。酒でも飲んだ時は、※[#「女+息」、第4水準2−5−70]に負け通しの婆さんも昔の権式を出して、人が久さんを雇いに往ったりするのが気にくわぬとなると、「お広《ひろ》、断わるがいゝ」と啖呵《たんか》を切った。
四
死んだ棄児《すてご》の稲次郎が古巣に、大工の妾と入れ代りに東京から書《ほん》を読む夫婦の者が越して来た。地面は久さんの義兄のであったが、久さんの家で小作をやって居た。東京から買主が越して来ぬ内に、久さんのおかみは大急ぎで裏の杉林の下枝を落したり、櫟林の落葉を掃いて持って行ったりした。買主が入り込んでのちも、其栗の木は自分が植えたの、其|韮《にら》や野菜菊は内で作ったの、其|炉縁《ろぶち》は自分のだの、と物毎に争《あらそ》うた。稲次郎の記憶が残って居る此屋敷を人手に渡すを彼女は惜んだのであった。地面は買主のでも、作ってある麦はまだおかみの麦であった。地面の主は、麦の一部を買い取るべく余儀なくされた。おかみは義兄と其|値《ね》を争うた。買主は戯談《じょうだん》に「無代《ただ》でもいゝさ」と云うた。おかみはムキになって「あなたも耶蘇教信者《やそきょうしんじゃ》じゃありませんか。信者が其様《そん》な事を云うてようござンすか」とやり込《こ》めた。彼女に恐ろしいものは無かった。ある時義兄が其|素行《そこう》について少し云々したら、泥足でぬれ縁に腰かけて居た彼女は屹《きっ》と向き直り、あべこべに義兄に喰《く》ってかゝり、老人と正直者を任《まか》せて置きながら、病人があっても本家として見もかえらぬの、慾張《よくば》ってばかり居るのと、いきり立った。彼女は人毎に本家の悪口を云って同情を獲ようとした。「本家の兄が、本家の兄が」が彼女の口癖《くちぐせ》であった。彼女は本家の兄を其魔力の下に致し得ぬを残念に思うた。相手かまわず問わず語《がた》りの勢込《いきおいこ》んでまくしかけ、「如何《いか》に兄が本《ほん》が読めるからって、村会議員《そんかいぎいん》だからって、信者だって、理《り》に二つは無いからね、わたしは云ってやりましたのサ」と口癖の様に云うた。人が話をすれば、「※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、ふん、ふん」と鼻《はな》を鳴《な》らして聞いた。彼女の義兄も村に人望ある方ではなかったが、彼女も村では正札附の莫連者《ばくれんもの》で、堅い婦人達は相手にしなかった。村に武太《ぶた》さんと云う終始ニヤ/\笑って居る男がある。かみさんは藪睨《やぶにらみ》で、気が少し変である。ピイ/\声《ごえ》で言う事が、余程馴れた者でなければ聞きとれぬ。彼女は誰に向うても亡くした幼女の事ばかり云う。「子供ははァ背に負《おぶ》っとる事ですよ。背からおろしといたばかしで、女《むすめ》もなくなっただァ」と云いかけて、斜視《やぶ》の眼から涙をこぼして、さめ/″\泣き入るが癖である。また誰に向っても、「萩原《はぎわら》の武
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