が清《す》んだのでいさゝか慰めた。農家は毎夜風呂を立てる。彼等も成る可く立てた。最初寒い内は土間に立てた。水をかい込むのが面倒で、一週間も沸《わ》かしては入《はい》り沸かしては入りした。五日目位からは銭湯の仕舞湯以上に臭くなり、風呂の底がぬる/\になった。それでも入らぬよりましと笑って、我慢《がまん》して入った。夏になってから外で立てた。井《いど》も近くなったので、水は日毎に新にした。青天井《あおてんじょう》の下の風呂は全く爽々《せいせい》して好い。「行水《ぎょうずい》の捨て処なし虫の声」虫の音《ね》に囲まれて、月を見ながら悠々と風呂に浸《つか》る時、彼等は田園生活を祝した。時々雨が降《ふ》り出すと、傘をさして入ったり、海水帽をかぶって入ったりした。夏休《なつやすみ》に逗留に来て居る娘なども、キャッ/\笑い興《きょう》じて傘風呂《からかさぶろ》に入った。

       四

 彼等が東京から越して来た時、麦はまだ六七寸、雲雀の歌も渋りがちで、赤裸な雑木林の梢《こずえ》から真白《まっしろ》な富士を見て居た武蔵野《むさしの》は、裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、移り変る自然の面影は、其日※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]其月※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]の趣を、初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物《まきもの》の如くのべて見せた。彼等は周囲《あたり》の自然と人とに次第に親しみつゝ、一方には近づく冬を気構えて、取りあえず能うだけの防寒設備をはじめた。東と北に一間の下屋《げや》をかけて、物置、女中部屋、薪小屋、食堂用の板敷とし、外に小さな浴室《よくしつ》を建《た》て、井筒《いづつ》も栗の木の四角な井桁《いげた》に更《か》えることにした。畑も一|反《たん》四|畝《せ》程買いたした。観賞樹木も家不相応に植え込んだ。夏から秋の暮にかけて、間歇的《かんけつてき》だが、小婢《こおんな》も来た。十月の末、八十六の父と七十九の母とが不肖児の田舎住居を見に来た時、其前日夫妻で唖の少年を相手に立てた皮つきのまゝの栗の木の門柱は、心ばかりの歓迎門として父母を迎えた。而してタヽキは出来て居なかったが、丁度彼の誕生日の十月二十五日に浴室の使用初《つかいぞめ》をして、「日々新」と父が其《その》板壁《いたかべ》に書いてくれた。
 斯くて千歳村《ちとせむら》の一年は、馬車馬の走る様《よう》に、さっさと過ぎた。今更《いまさら》の様だが、愉快は努力に、生命は希望にある。幸福は心の貧しきにある。感謝は物の乏しきにある。例令《たとえ》此《この》創業《そうぎょう》の一年が、稚気乃至多少の衒気《げんき》を帯びた浅瀬の波の深い意味もない空躁《からさわ》ぎの一年であったとするも、彼はなお彼を此生活に導いた大能の手を感謝せずには居られぬ。
 彼は生年四十にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである。
[#改丁]

   草葉のささやき

     二百円

 樫《かし》の実が一つぽとりと落ちた。其|幽《かすか》な響が消えぬうちに、突《つ》と入って縁先に立った者がある。小鼻《こばな》に疵痕《きずあと》の白く光った三十未満の男。駒下駄に縞物《しまもの》ずくめの小商人《こあきんど》と云う服装《なり》。眉から眼にかけて、夕立《ゆうだち》の空の様な真闇《まっくら》い顔をして居る。
「私《わたし》は是非一つ聞いていたゞきたい事があるンで」
と座に着くなり息をはずませて云った。
「私は妻《かない》に不幸な者でして……斯《こう》申上げると最早《もう》御分かりになりましょうが」
 最初は途切れ/\に、あとは次第に調子づいて、盈《み》ちた心を傾くる様に彼は熱心に話した。
 彼は埼玉《さいたま》の者、養子であった。繭《まゆ》商法に失敗して、養家の身代を殆《ほと》んど耗《す》ってしまい、其恢復の為朝鮮から安東県に渡って、材木をやった。こゝで妻子を呼び迎えて、暫《しばらく》暮らして居たが、思わしい事もないので、大連《だいれん》に移った。日露戦争の翌年の秋である。大連に来て好い仕事もなく、満人臭《まんざくさ》い裏町にころがって居る内に、子供を亡《な》くしてしまった。
「可愛いやつでした。五歳《いつつ》でした、女児《おんなのこ》でしたがね、其《そ》れはよく私になずいて居ました。国に居た頃でも、私が外から帰って来る、母や妻《かない》は無愛想でしても、女児《やつ》が阿爺《とうさん》、阿爺と歓迎して、帽子《ぼうし》をしまったり、其《そ》れはよくするのです。私も全《まった》く女児を亡くしてがっかりしてしまいました。病気は急性肺炎でしたがね、医者に駈けつけ頼むと、来ると云いながら到頭来ません。其内息を引きとってしまったンで
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