す。医者は耶蘇教信者だそうですが、私が貧乏者なんだから、それで其様《そん》な事をしたものでしょう。尤も医者もあとで吾子を亡くして、自分が曾《かつ》て斯々の事をした、それで斯様《かよう》な罰を受けたと懺悔《ざんげ》したそうですがね」
彼は暫く眼をつぶって居た。
「それから?」
「それから何時まで遊んでも居られませんから、夫婦である会社――左様、大連で一と云って二と下らぬ大きな会社と云えば大概御存じでしょう、其会社のまあ大将ですね、其大将の家《うち》に奉公に住み込みました。何《なに》しろ大連で一と云って二と下らぬ会社なものですから、生活なンかそりゃ贅沢《ぜいたく》なもンです。召使も私共夫婦の外に五六人も居ました。奥さんは好《い》い方で、私共によく眼をかけてくれました。其内奥さんは何か用事で一寸内地へ帰られました。奥さんが内地へ帰られてから、二週間程経つと、如何《どう》も妻の容子《ようす》が変《かわ》って来ました。――妻ですか、何、美人なもンですか、些《ちっと》も好くはないのです」と彼は吐き出す様に云った。
「妻の容子がドウも変《へん》になりました。私も気をつけて見て居ると、腑《ふ》に落ちぬ事がいくらもあるのです。主人が馬車で帰って来ます。二階で呼鈴が鳴ると、妻が白いエプロンをかけて、麦酒《びいる》を盆にのせて持て行くのです。私は階段下に居ます。妻が傍眼《わきめ》に一寸私を見て、ずうと二階に上って行く。一時間も二時間も下りて来ぬことがあります。私は耳をすまして二階の物音を聞こうとしたり、窃《そっ》と主人の書斎の扉《どあ》の外に抜足《ぬきあし》してじいッと聴いたり、鍵《かぎ》の穴からも覗《のぞ》いて見ました。が、厚い厚い扉《どあ》です。中は寂然《ひっそり》して何を為《し》て居るか分かりません。私は実に――」
彼は泣き声になった。一つに寄《よ》った真黒《まっくろ》い彼の眉はビリ/\動いた。唇《くちびる》は顫《ふる》えた。
「妻の眼色《めいろ》を読もうとしても、主人の貌色《かおいろ》に気をつけても、唯《ただ》疑念《ぎねん》ばかりで証拠を押えることが出来ません。斯様《こん》な処に奉公するじゃないと幾度思ったか知れません。また其様《そう》妻に云ったことも一度や二度じゃありません。けれども妻は其度に腹を立てます。斯様にお世話になりながら奥様のお留守にお暇をいたゞくなんかわたしには出来ない、其様に出たければあなた一人で勝手に何処へでもお出《いで》なさい、何処ぞへ仕事を探がしに御出《おいで》なさい、と突慳貪《つっけんどん》に云うンです。最早《もう》私も堪忍出来なくなりました」
「そこである日妻を無理に大連の郊外に連れ出しました。誰も居ない川原《かわら》です。種々と妻を詰問しましたが、如何《どう》しても実を吐《は》きません。其れから懐中して居た短刀をぬいて、白状《はくじょう》するなら宥《ゆる》す、嘘《うそ》を吐《つ》くなら命を貰《もら》うからそう思え、とかゝりますと、妻は血相を変えて、全く主人に無理されて一度済まぬ事をした、と云います。嘘を吐け、一度二度じゃあるまい、と畳みかけて責《せ》めつけると、到頭《とうとう》悉皆《すっかり》白状してしまいました」
彼はホウッと長い息をついた。
「それから私は主人に詰問の手紙を書きました。すると翌日主人が私を書斎に呼びまして『ドウも実に済まぬ事をした。主人の俺《わし》が斯《こ》う手をついてあやまるから、何卒《どうぞ》内済《ないさい》にしてくれ。其かわり君の将来は必俺が面倒を見る。屹度《きっと》成功さす。これで一先ず内地に帰ってくれ』と云って、二百円、左様、手の切れる様《よう》な十円|札《さつ》でした、二百円呉れました」
「君は其二百円を貰ったンだね、何故《なぜ》其《その》短刀で其男を刺殺さなかった?」
彼は俯《うつむ》いた。
「それから?」
「それから一旦《いったん》内地に帰って、また大連に行きました。最早《もう》主人は私達に取合いません。面会もしてくれません」
「而《そう》して今は?」
「今は東京の場末《ばすえ》に、小さな小間物屋を出して居ます」
「細君《さいくん》は?」
「妻は一緒に居るのです」
話は暫く絶えた。
「一緒に居ますが、面白くなくて/\、胸《むね》がむしゃくしゃして仕様《しよう》がないものですから、それで今日《こんにち》は――」
*
忽然《こつぜん》と風の吹く様に来た男は、それっきり影も見せぬ。
[#改ページ]
百草園
田の畔《くろ》に赭《あか》い百合《ゆり》めいた萱草《かんぞう》の花が咲く頃の事。ある日太田君がぶらりと東京から遊びに来た。暫く話して、百草園《もぐさえん》にでも往って見ようか、と主人は云い出した。百草園は府中《ふちゅう》から遠く
前へ
次へ
全171ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 健次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング