忘れ得なかった。彼の家から西へ四里、府中町《ふちゅうまち》へ買った地所と家作の登記《とうき》に往った帰途、同伴の石山氏が彼を誘《さそ》うて調布町のもと耶蘇教信者の家に寄った。爺さんが出て来て種々雑談の末、石山氏が彼を紹介《しょうかい》して今度村の者になったと云うたら、爺さん熟々《つくづく》彼の顔を見て、田舎住居も好いが、さァ如何《どう》して暮したもんかな、役場の書記と云ったって滅多《めった》に欠員《けついん》があるじゃなし、要するに村の信者の厄介者だと云う様な事を云った。そこで彼はぐっと癪《しゃく》に障《さわ》り、斯《こ》う見えても憚りながら文字の社会では些《ちっと》は名を知られた男だ、其様な喰詰《くいつ》め者と同じには見て貰うまい、と腹の中では大《おおい》に啖呵《たんか》を切ったが、虫を殺して彼は俯《うつむ》いて居た。家が日あたりが好いので、先の大工の妾時代から遊び場所にして居た習慣から、休日には若い者や女子供が珍らしがってよく遊びに来た。妻が女児の一人に其《その》家《うち》をきいたら、小さな彼女は胸を突出し傲然《ごうぜん》として「大尽《だいじん》さんの家《うち》だよゥ」と答えた。要するに彼等は辛《かろ》うじて大工の妾のふる巣にもぐり込んだ東京の喰いつめ者と多くの人に思われて居た。実際彼等は如何様《どんな》に威張《いば》っても、東京の喰詰者であった。但《ただ》字を書く事は重宝がられて、彼も妻もよく手紙の代筆をして、沢庵《たくわん》の二三本、小松菜の一二|把《わ》礼にもらっては、真実感謝して受けたものだ。彼はしば/\英語の教師たる可く要求された。妻は裁縫《さいほう》の師匠をやれと勧められた。自身《じしん》上州《じょうしゅう》の糸屋から此村の農家に嫁《とつ》いで来た媼《ばあ》さんは、己が経験から一方ならず新参のデモ百姓に同情し、種子をくれたり、野菜をくれたり、桑があるから養蚕《ようさん》をしろの、何の角のと親切に世話をやいた。
三
東京へはよく出た。最初一年が間は、甲州《こうしゅう》街道《かいどう》に人力車があることすら知らなかった。調布新宿間の馬車に乗るすら稀《まれ》であった。彼等が千歳村《ちとせむら》に越して間もなく、玉川電鉄は渋谷《しぶや》から玉川まで開通したが、彼等は其れすら利用することが稀であった。田舎者は田舎者らしく徒歩主義《とほしゅぎ》を執らねばならぬと考えた。彼も妻も低い下駄、草鞋《わらじ》、ある時は高足駄《たかあしだ》をはいて三里の路を往復した。しば/\暁かけて握飯食い/\出かけ、ブラ提灯を便《たよ》りに夜《よる》晩《おそ》く帰ったりした。丸《まる》の内《うち》三菱《みつびし》が原で、大きな煉瓦の建物を前に、草原《くさはら》に足投げ出して、悠々《ゆうゆう》と握飯食った時、彼は実際好い気もちであった。彼は好んで田舎を東京にひけらかした。何時《いつ》も着のみ着のまゝで東京に出た。一貫目余の筍《たけのこ》を二本|担《にな》って往ったり、よく野茨の花や、白いエゴの花、野菊や花薄《はなすすき》を道々折っては、親類へのみやげにした。親類の女子供も、稀に遊びに来ては甘藷《いも》を洗ったり、外竈《そとへっつい》を焚《た》いて見たり、実地の飯事《ままごと》を面白がったが、然し東京の玄関《げんかん》から下駄ばきで尻からげ、やっとこさに荷物|脊負《せお》うて立出る田舎の叔父の姿を見送っては、都《みやこ》の子女《しじょ》として至って平民的な彼等も流石に羞《はず》かしそうな笑止《しょうし》な顔をした。
彼は田舎を都にひけらかすと共に、東京を田舎にひけらかす前に先ず田舎を田舎にひけらかした。彼は一切《いっさい》の角《つの》を隠して、周囲に同化す可く努《つと》めた。彼はあらゆる村の集会《しゅうかい》に出た。諸君が廉酒《やすざけ》を飲む時、彼は肴《さかな》の沢庵をつまんだ。葬式に出ては、「諸行無常」の旗持をした。月番《つきばん》になっては、慰兵会費を一銭ずつ集めて廻って、自身役場に持参《じさん》した。村の耶蘇教会にも日曜毎《にちようごと》に参詣して、彼が村入して程なく招《まね》かれて来た耳の遠い牧師の説教《せっきょう》を聴いた。荷車を借りて甲州街道に竹買いに行き、椎蕈ムロを拵《こしら》えると云っては屋根屋の手伝をしたりした。都の客に剣突《けんつく》喫《く》わすことはある共、田舎の客に相手《あいて》にならぬことはなかった。誰《たれ》にでもヒョコ/\頭を下げ、いざとなれば尻軽《しりがる》に走り廻った。牛にひかれた妻も、外竈《そとへっつい》の前に炭俵を敷いて座りながら、かき集めた落葉で麦をたき/\読書をしたりして「大分《だいぶ》話《はな》せる」と良人にほめられた。
玉川に遠いのが毎《いつ》も繰り返えされる失望であったが、井水
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