《しゃ》に構え、さっさと語り出した。咽喉《のど》をいためて療治《りょうじ》中だと云うに、相変らず美しい声である。少しは加減して居る様だが、調子に乗ると吾を忘れて声帯《せいたい》が震《ふる》うらしい。語り出しは、今少しだ。鳥辺山《とりべやま》は矢張好かった。灯影《ほかげ》明るい祇園町の夜、線香の煙《けぶり》絶々《たえだえ》の鳥辺山、二十一と十七、黒と紫とに包まれた美しい若い男女が、美しい呂昇の声に乗ってさながら眼の前に踊《おど》った。お俊《しゅん》のさわりはます/\好い。呂昇が堀川のお俊や、酒屋のお園や、壺坂《つぼさか》のお里を語るは、自己を其人に托《たく》するのだ。同じ様な上方女《かみがたおんな》、同じ様な気質《きだて》の女、芸と人とがピッタリ合うて居るのだ。悪かろう筈がない。呂昇が彼美しい声で語り出す美しい女性《にょしょう》の魂《たましい》は、舞台のノラ[#「ノラ」に傍線]を見たり机の上の青鞜《せいとう》を読んだりする娘達に、如何様《どん》な印象《いんしょう》を与うるであろうか。余は見廻わした。直ぐ隣の腰かけに、水際立《みずぎわた》ってすっきりとした装《なり》をした十八九の庇髪《ひさしがみ》が三人並んで居る。二人は心を空《そら》にして呂昇の方を見入って居る。一人の金縁眼鏡には露が光って居る。日の若い単純《たんじゅん》な代《よ》も、複雑な今日も、根本《こんぽん》の人情に差違はない。唯真故新《ただしんゆえにしん》、古い芸術も新しい耳によく解せられるのである。
 猿廻《さるまわ》しに来た。此は呂昇の柄《がら》にも無いし、連れ弾もまずいし、大隈《おおすみ》を聞いた耳には、無論物足らぬ。と思いつゝ、十数年前の歌舞伎座《かぶきざ》が不図眼の前に浮んだ。ぽっと鬘《かつら》をかぶった故人菊五郎の与次郎が、本物の猿を廻わしあぐんで、長い杖《つえ》で、それ立つのだ、それ辞義《じぎ》だと、己《わ》が物好きから舞台面の大切《たいせつ》な情味を散々に打壊《ぶちこわ》して居る。今の梅幸の栄三郎のお俊が、美しい顔に涙はなくて今にも吹き出しそうにして居る。故人片市の婆《ばあ》さんと、故人菊之助の伝兵衛が独《ひとり》神妙《しんみょう》にお婆さんになり伝兵衛になって舞台を締《し》めて居る。余は菊之助が好きだった。彼が真面目《まじめ》な努力の芸術は、若いながらも立派なものであった。彼は自身がする程の役には、何様《どん》な役でも身を入れて勤めた。養父《ようふ》も義弟も菊五郎や栄三郎|寧《いっそ》寺島父子になって了《しも》うた堀川の芝居の此猿廻わしの切《きり》にも、菊之助のみは立派《りっぱ》な伝兵衛であった。最早彼は此世に居ない。片市も、菊五郎も居ない。
 夥《おびただ》しい拍手が起った。吾に復《かえ》ると呂昇と昇華が演壇の上に平伏《ひれふ》して居た。

       三

 堀川は十時十五分に終った。外に出ると、雨がぼと/\落ちて居る。雨傘《あまがさ》と、懐中電燈の電池《でんち》を買って、電車で新宿に往った。追分《おいわけ》で下りて、停車場前の陸橋を渡ると、一台居合わした車に乗った。若い車夫はさっさと挽《ひ》き出す。新町を出はなれると、甲州街道は真暗で、四辺《あたり》はひっそりして居た。余程降ったと見えて、道が大分悪い。
「旦那は重うございますね。二十|貫《かん》から御ありでしょう」
「なまけるからね」
「エ、如何《どう》しても体を烈《はげ》しく使《つか》うと、ふとりませんな。私ですか、私は十四貫しかありません」
 車夫は市川の者、両親は果て、郷里の家は兄がもち、自身は今|十二社《じゅうにそう》に住んで、十三の男児《むすこ》を頭に子供が四人、六畳と二畳を三円五十銭で借り、かみさんは麻《あさ》つなぎの内職をして居る。
「だから中々遊んで居られませんや」
 烏山《からすやま》の口《くち》で下りて、代を払い、南へ切れ込んだ。
 雨は止んで居る。懐中電燈の光を便《たよ》りに、真黒い藪蔭《やぶかげ》の路を通って、田圃《たんぼ》に下りた。夜目にも白い田の水。蛙《かわず》の声が雨の様だ。不図東の空《そら》を見ると、大火事の様に空が焼けて居る。空に映《うつ》る東京の火光《あかり》である。見る/\すうと縮《ちぢ》み、またふっと伸びる。二百万の生霊《せいれい》が吐《つ》く息《いき》ひく息が焔《ほのお》になるのかと物凄《ものすご》い。田圃の行き止まりに小さな流れがある。其処《そこ》に一つ碧《あお》い光が居る。はっと思うと、ついと流れた。螢《ほたる》であった。田圃を上りきると、今度は南の空の根方《ねかた》が赤く焼けて居る。東京程にもないが、此は横浜の火光《あかり》であろう。村々は死んだ様に真黒《まっくろ》に寝て居る。都は魘《おそ》われた様に深夜《しんや》に火の息を吐いて居る。
[#地から
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