と運転手が云う。
 余は痛快であった。自動車の意志は、さながら余に乗り移《うつ》って、臆病者《おくびょうもの》も一種の恍惚《エクスタシー》に入った。余は次第に大胆《だいたん》になった。自動車が余を載せて駈けるではなく、余自身が自動車を駆って斯《か》く駛《は》せて居るのだ。余は興《きょう》に乗《じょう》じた。運転手台に前途を睥睨《へいげい》して傲然《ごうぜん》として腰かけた。道があろうと、無かろうと、斯速力で世界の果まで驀地《まっしぐら》に駈けて見たくなった。山となく、野となく、人でも獣《けもの》でもあらゆるものを乗り越え踏みつけ、唯真直に一文字に存分に駈けて駈けて駈けぬいて見たくなった。硝子戸《がらすど》の内を見かえれば、母は眼を閉じ、父は口を開き、姉と妻児《さいじ》は愉快そうに笑って話して居る。
「何《ど》の位でとめられるですかね」またそろ/\臆病風《おくびょうかぜ》が吹いて来た余は、右手にかけて居る運転手に問うた。
「三|間前《げんまえ》ならトメます。運転手は中々頭がなければ出来ません」
「随分神経を使うですね」
「エ、然し愉快です――力《ちから》ですから」
 忽《たちまち》世田ヶ谷村役場の十字路に来た。南に折れて、狭い路を田圃に下り、坂を上って世田ヶ谷街道に出るまで、荷車が来はせぬか、荷馬車が来はせぬか、と余はびく/\ものであった。
 世田ヶ谷に出て、三軒茶屋以往は、最早東京の場末である。電車、人力車、荷車、荷馬車、馬、さま/″\の人間の間を、悧巧《りこう》な自動車は巧に縫うて、家を出て三十分、まさに青山に着いた。
 余は老人子供を扶《たす》け下ろして、ホット一息ついた。
[#地から3字上げ](明治四十五年 五月十八日)
[#改ページ]

     デカの死

 昨日|隣字《となりあざ》に知辺《しるべ》の結婚があった。余は「みゝずのたはこと」の校正を差措《さしお》いて、鶴子を連れて其席に連《つら》なり、日暮れて帰ると、提灯《ちょうちん》ともして迎えに来た女中は、デカが先刻《せんこく》甲州街道で自動車に轢《ひ》かれたことを告げた。今朝も奥の雨戸を開《あ》けると、芝生《しばふ》に腹這《はらば》いながら、主人の顔を見て尻尾《しっぽ》振《ふ》り/\した。書院の雨戸を開けると、起きて来て縁《えん》に両手をつき、主人に頭《あたま》撫《な》でられて嬉《うれ》しそうに尾を振って居た。正午の頃までは、裏の櫟林《くぬぎばやし》で吠《ほ》えたりして居た。何時の間に甲州街道に遊びに往って無惨《むざん》の最後《さいご》を遂《と》げたのか。
 尤も彼は此頃ひどく弱って居た。彼は年来ピンの押入婿《おしいりむこ》であったが、昨秋新に村人の家に飼われた勇猛《ゆうもう》の白犬の為に一度噛み伏せられてピンをとられて以来、俄に弱って著《いちじる》しく老衰して見えた。彼は其の腹慰《はらい》せであるかの如く、何処からかまだ子供々々した牝犬《めいぬ》を主人の家に連れ込んだ。如何に犬好きの家でも、牝犬二匹は厄介である。主人は度々牝犬を捨てたが、直ぐ舞戻《まいもど》って来た。到頭近所の人を頼み、わざ/\汽車で八王子まで連れて往って捨てゝもろうた。二週間前の事である。其後デカが夜毎に帰っては来たが、昼《ひる》は其牝犬を探《さ》がしあるいて居るらしかった。探がし探がして探がし得ず、がっかりした容子《ようす》は、主人の眼にも笑止《しょうし》に見えた。其様《そん》な事で弱って居る矢先《やさき》、自動車に轢《ひ》かるゝ様なことになったのだろう。春秋《しんじゅう》の筆法《ひっぽう》を以てすれば、取りも直さず牝犬を捨てた主人の余の手にかゝって死んだのである。
 彼は幡《はた》ヶ谷《や》の阪川牛乳店に生れて、其処《そこ》此処《ここ》に飼われた。名もポチと云い、マルと云い、色々の名をもって居た。ある大家では、籍まで入れて飼って居たが、交尾期《こうびき》にあまり家をあけるので、到頭|離籍《りせき》して了うた。其様《そん》な事で彼は甲州街道の浮浪犬《ふろういぬ》になり、可愛がられもし窘《いじ》められもした。最後に主従の縁を結んだのが、粕谷の犬好きの家だった。デカは粕谷の犬になって二年|経《へ》た。渡り者のくせで、子飼《こがい》から育てたピンの如くはあり得なかった。主人に跟《つ》いて出ても、中途から気が変って道草を喰《く》ったりしては、水臭《みずくさ》いやつだと主人に怒《おこ》られた。雄犬の癖《くせ》でもあるが、よく家をあけた。先《せん》の主《ぬし》、先々の主、其外|一飯《いっぱん》の恩《おん》ある家《うち》をも必|訪《たず》ねた。悪戯《いたずら》でもして叱られると、直ぐ甲州街道に逃げて往った。然し彼はよく主人をはじめ一家の者になずいて、仮令余が彼を撲《ぶ》ちたゝくことがあっても、彼は手足をち
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