ボ」に二重傍線]で気が変になり、春画《しゅんが》など水夫部屋に飾《かざ》って拝《おが》んだりして居たが、到頭印度洋の波を分けて水底深く沈《しず》んで了うた、と其船の人が余に語り聞かせた。印度洋の彼《かの》不可思議《ふかしぎ》な色をして千劫《せんごう》万劫《まんごう》已《や》む時もなくゆらめく謎《なぞ》の様な水面《すいめん》を熟々《つくづく》と見て居れば、引き入れられる様で、吾れ知らず飛び込みたくなる。
 三年前余は印度洋を東から西へと渡った。日々海を眺《なが》めて暮らした。海の魔力《まりょく》が次第に及ぶを感じた。三等船客の中に、眼が悪《わる》いので欧洲《おうしゅう》廻《まわ》りで渡米する一青年があって「思出《おもいで》の記《き》」を持て居た。ペナン[#「ペナン」に二重傍線]からコロムボ[#「コロムボ」に二重傍線]の中間《ちゅうかん》で、余は其思出の記を甲板《かんぱん》から印度洋へ抛《ほう》り込んだ。思出の記は一瞬《いっしゅん》の水煙《みずけむり》を立てゝ印度洋の底深《そこふか》く沈んで往ったようであったが、彼小人菊池慎太郎が果して往生《おうじょう》したや否は疑問である。印度洋は妙に人を死に誘《さそ》う処だ。
[#地から3字上げ](明治四十二年 五月十二日)
[#改ページ]

     自動車

 九十一歳の父と、八十四歳の母と逗留《とうりゅう》に来ると云う。青山から人力車では、一時間半はかゝる。去年までは車にしたが、今年《ことし》は今少し楽《らく》なものをと考えて、到頭以前|睥睨《へいげい》して居た自動車をとることにした。実は自身乗って見たかったのである。
 自動車は余の嫌いなものゝ一《ひとつ》である。曾て溜池《ためいけ》の演伎座前《えんぎざまえ》で、微速力《びそくりょく》で駈《か》けて来た自動車を避《さ》けおくれて、田舎者の婆さんが洋傘《こうもり》を引かけられて転《ころ》んだ。幸に大した怪我《けが》はなかったが、其時自動車の内から若い西洋人がやおら立上り、小雨《こさめ》を厭《いと》うて悠々《ゆうゆう》と洋傘《こうもり》をひらいて下り立った容子のあまりに落つき払ったのを、眼前に見た余は、其西洋人を合せて自動車に対する憎悪《ぞうお》を抑《おさ》えかねた。自動車は其後余の嫌いなものゝ一《ひとつ》であった。
 然るに自身乗って見れば、案外乗心地が好い。青山から余の村まで三十分で来た。父が「一家鶏犬一車上、器機妙用瞬間行」なぞ悪詩《あくし》を作った。工合《ぐあい》が好いので、帰りも自動車にした。今度のは些《ちと》大きく、宅の傍《そば》までは来ぬと云う。五丁程歩んで、乗った。栗梅色《くりうめいろ》に塗《ぬ》った真新《まあたら》しい箱馬車式《はこばしゃしき》の立派なものだ。米国から一昨日着いたばかり、全速《ぜんそく》五十|哩《まいる》、六千円出たそうだ。父、母、姉、妻、女は硝子戸《がらすど》の内に、余は運転手《うんてんしゅ》と並んで運転手台に腰かけた。
 運転手の手にハンドルが一寸|捩《ねじ》られると、物珍らしさにたかる村の子供の群《むれ》を離《はな》れて、自動車はふわりと滑《すべ》り出した。村路《そんろ》を出ぬけて青山街道に出る。識《し》る顔の右から左から見る中を、余は少しは得意に、多くは羞明《まぶ》しそうに、眼を開けたりつぶったりして馳《は》せて行く。坂を下って、田圃《たんぼ》を通って、坂を上って、車は次第に速力を出した。荷車が驚いて道側《みちばた》の草中《くさなか》に避《よ》ける。鶏《にわとり》が刮々《くわっくわっ》叫んで忙《あわ》てゝ遁《に》げる。小児《こども》の肩《かた》を捉《とら》え、女が眼を円《まる》くして見送る。囂々《ごうごう》、機関《きかん》が鳴《な》る。弗々々《ふっふっふっ》、屁《へ》の如く放《ひ》り散《ち》らすガソリンの余煙《よえん》。後《あと》には塵も雲と立とうが、車上の者には何でもない。あたり構わず突進する現代精神を具象《ぐしょう》した車である。但人通りが少ないので、此街道は自動車には理想的な道路と云ってよい。
 豪徳寺《ごうとくじ》附近に来ると、自動車は一《ひと》かく入れた馬の如く、決勝点《けっしょうてん》を眼の前に見る走者《そうしゃ》の如く、宛《さ》ながら眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》り、※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》と口を結んで、疾風の如く駛《は》せ出した。余は帽子に手を添《そ》えた。麦畑や、地蔵や、眼と口を一緒《いっしょ》にあけた女の顔や、人の声や、眼《め》まぐろしく駈《か》けて来ては後《うしろ》へ飛ぶ。機関の響は心臓の乱拍子《らんぴょうし》、車は一の砲弾《ほうだん》の如く飄《ひゅう》、倏《しゅっ》と唸《うな》って飛ぶ。
「今三十五|哩《まいる》の速力です」

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