家族の中で唯一人《ただひとり》の男の彼は、母と三人の姉と熊本を東南に距《さ》る四里の山中の伯父《おじ》の家に避難した。山桜《やまざくら》も散って筍《たけのこ》が出る四月の末、熊本城の囲《かこみ》が解《と》けたので、避難の一家は急いで帰途に就いた。伯父の家から川に添《そ》うて一里下れば木山町、二里下ると沼山津《ぬやまづ》村。今夜は沼山津|泊《とまり》の予定であった。皆|徒歩《かち》だった。木山まで下ると、山から野に出る。彼等は川堤《かわつつみ》を水と共に下って往った。堤の北は藻隠《もがく》れに鮒《ふな》の住む川で、堤の南は一面の田、紫雲英が花毛氈《はなもうせん》を敷き、其の絶間《たえま》※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《たえま》には水銹《みずさび》が茜色《あかねいろ》の水蓋《みずぶた》をして居た。行く程に馬上の士官が来た。母が日傘《ひがさ》を横にして会釈《えしゃく》し、最早《もう》熊本に帰っても宜しゅうございましょうかと云うた。宜《よ》いとも/\、皆《みんな》ひどい目に会《あ》った喃《なあ》。と士官が馬上から挨拶《あいさつ》した。其処《そこ》に土俵《どひょう》で築《きず》いた台場《だいば》――堡塁《ほるい》があった。木山の本営《ほんえい》を引揚《ひきあ》げる前、薩軍《さつぐん》が拠《よ》って官軍を拒《ふせ》いだ処である。今は附《つ》け剣《けん》の兵士が番して居た。会釈して一同其処を通りかゝると、蛇が一疋のたくって居る。蛇嫌《へびぎら》いの彼は、色を変えて立どまった。兵士が笑って、銃剣《じゅうけん》の先《さき》で蛇をつっかけて、堤外《ていがい》に抛《ほう》り出した。無事に此《この》関所《せきしょ》も越して、彼は母と姉と※[#「口+喜」、第3水準1−15−18]々《きき》として堤を歩んだ。春の日はぽかり/\春の水はのたり/\、堤外は一面の紫雲英で、空には雲雀《ひばり》、田には蛙《かわず》が鳴いて居る。明日《あす》家《うち》に帰る前に今夜|泊《とま》る沼山津の村は、一里向うに霞んで居る。……
「阿父《おとうさん》、ほら此様《こんな》に摘んでよ」
吾に復《か》えった彼の眼の前に、両手《りょうて》につまんで立った鶴子の白《しろ》胸掛《むねかけ》から、花の臙脂《えんじ》がこぼれそうになって居る。
[#地から3字上げ](明治四十四年 五月八日)
[#改ページ]
印度洋
夜、新聞で見ると、長谷川《はせがわ》二葉亭《ふたばてい》氏が肺病で露西亜から帰国の船中、コロムボ[#「コロムボ」に二重傍線]と新嘉坡《シンガポール》の間で死んだとある。去十日の事。
馬琴物《ばきんもの》から雪中梅型《せっちゅうばいがた》のガラクタ小説に耽溺《たんでき》して居た余に、「浮雲《うきぐも》」は何たる驚駭《おどろき》であったろう。余ははじめて人間の解剖室《かいぼうしつ》に引ずり込まれたかの如く、メスの様な其|筆尖《ふでさき》が唯恐ろしかった。それからツルゲーネフの翻訳「あひゞき」を国民の友で、「めぐりあひ」を都の花で見た時、余は世にも斯様《こん》な美しい世界があるかと嘆息した。繰《く》り返えし読んで足らず、手ずから写《うつ》したものだ。其後「血笑記《けっしょうき》」を除く外、翻訳物は大抵見た。「其《その》面影《おもかげ》」はあまり面白いとも思わなかった。「平凡《へいぼん》」は新聞で半分から先きを見た。浮雲の筆は枯《か》れきって、ぱっちり眼を開いた五十男の皮肉《ひにく》と鋭利《えいり》と、醒《さ》めきった人のさびしさが犇々《ひしひし》と胸に迫《せま》るものがあった。朝日から露西亜へ派遣《はけん》された時、余は其通信の一|行《ぎょう》も見落さなかった。通信の筆は数回ではたと絶えた。而《そう》して帰朝中途の死!
印度洋はよく人の死ぬ所である。昔から船艦《せんかん》の中で死んで印度洋の水底に葬《ほうむ》られた人は数知れぬ。印度洋で死んだ日本人も一人や二人では無い。知人《ちじん》柳房生《りゅうぼうせい》の親戚|某神学士《ぼうしんがくし》も、病を得て英国から帰途印度洋で死んで、新嘉坡《シンガポール》に葬られた。二葉亭氏も印度洋で死んで新嘉坡で火葬され、骨になって日本に帰るのである。
高山《こうざん》の麓《ふもと》の谷は深い。世界第一の高峻《こうしゅん》雪山《せつさん》を有《も》つ印度の洋《うみ》は、幾干《いくばく》の人の死体を埋めても埋めても埋めきれぬ。其|陸《りく》の菩提樹《ぼだいじゅ》の蔭に「死の宗教」の花が咲いた印度の洋《うみ》は、餌《え》を求めて※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]《あ》くことを知らぬ死の海である。烈しい暑《あつ》さのせいもあろうが、印度洋は人の気を変にする。日本郵船のある水夫は、コロムボ[#「コロム
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