ゞめて横になり、神妙《しんみょう》に頭をのべて鞭《むち》を受けた。其為め余が鞭の手は自然に鈍《にぶ》るのであった。彼は長い間浮浪犬として飢《ひも》じい目をした故《せい》であろ、食物を見ると意地汚《いじきた》なく涎《よだれ》を流した。文豪《ぶんごう》ジョンソン[#「ジョンソン」に傍線]が若い時非常の貧苦を経た結果、位置が出来ても、物を食えば額《ひたい》に太《ふと》い筋《すじ》現《あら》われ、汗《あせ》を流し、犬の如くむしゃ/\喰うた、と云う逸話を思い浮《うか》べて、甚|可哀想《かあいそう》になった。其れから彼は餅《もち》でもやると容易《ようい》に食わず、熟《じっ》と主人の顔を見て、其れ切りですか、まだありますかと云う貌《かお》をした。三つも投げて、両手を開《ひら》いて見せると、彼は納得《なっとく》して、三個ながら口に啣《くわ》えて、芝生に行ってゆる/\食うのが癖であった。彼は浮浪の癖が中々|脱《ぬ》けなかった。先《せん》の白も彼に色々の厄介をかけたが、デカも近所の鶏《とり》を捕ったりして一再《いっさい》ならず迷惑《めいわく》をかけた。去年の秋の頃は、あまりに家をあけるので、煩悩《ぼんのう》も消え失せ、既に離籍《りせき》しようかとした程であった。其れがまた以前の如く居付《いつ》く様になり、到頭余が家のデカで死んだ。
今朝|懇意《こんい》の車屋がデカの死骸《しがい》を連れて来た。死骸は冷たくなって、少し眼をあいて居たが、一点の血痕《けっこん》もなく、唯|鼻先《はなさき》に土がついて居た。其死を目撃《もくげき》した人の話に、デカは昨日甲州街道の給田《きゅうでん》に遊びに往って、夕方玉川から帰る自動車目がけて吠《ほ》え付いた。と思うたら、自動車のタイヤに鼻づらを衝《つ》かれたのであろう、ひょろ/\と二度ばかり顛《ころ》んだ。自動車は見かえりもせず東京の方に奔って往って了うた。其容子を見て居た人は、デカを可愛がる人であったので、デカを連れ込んで、水天宮《すいてんぐう》の御符《おふだ》など飲ましたが、駄目であった。
余は鶏柵内《けいさくない》のミズクサの木の根を深く掘って、薦《こも》に包《つつ》んだまゝ眠った様なデカの死骸を葬《ほうむ》った。
[#地から3字上げ](大正二年 二月十七日)
[#改ページ]
ハムレット
帝国劇場で文芸協会のハムレットがある。芝居と云うものを久しく見ず、評判の帝国座もまだ覗《のぞ》いたことが無いので、見物に出かける。
劇場の外観は白っぽく冷《つめ》たく、あまり好い感じがせぬ。内は流石に綺羅《きら》びやかなものであった。二階の正面に陣取《じんど》って、舞台や天井《てんじょう》、土間、貴顕《きけん》のボックスと、ずっと見渡した時、吾着物の中で土臭《つちくさ》い体《からだ》が萎縮《いしゅく》するように感じた。
幕が上った。十五六世紀の西洋の甲冑《かっちゅう》着《つ》けた士卒が出て、鎌倉武士《かまくらぶし》の白《せりふ》を使う。亡霊《ぼうれい》の出になる。やがて丁抹《でんまるく》王城《おうじょう》の場になる。道具立《どうぐだて》は淋《さび》しいが、国王は眼がぎろりとして、如何にも悪党《あくとう》らしい。ガァツルード妃《ひ》は血色が好過ぎ若過ぎ強過ぎた。緑の上衣の若者を一寸ハムレットかと思うたら、そうではなくて、少し傍見《わきみ》をして居た内に、黒い喪服《もふく》のハムレットが出て来て、低い腰掛《こしかけ》にかけて居た。余は熟々《つくづく》とハムレットの顔を見た。成程違わぬ。舞台のハムレットには、幼《おさ》な顔の土肥《どい》君が残って居る。
土肥君は余の同郷、小学校の同窓《どうそう》である。色の浅黒い、顋《あご》の四角な、鼠《ねずみ》の様な可愛いゝ黒い眼をした温厚《おんこう》な子供であった。阿父《おとっさん》が書家《しょか》樵石《しょうせき》先生だけに、土肥君も子供の時から手跡《しゅせき》見事に、よく学校の先生に褒《ほ》められるのと、阿父が使いふるしの払子《ほっす》の毛先を剪《はさ》み切った様な大文字筆を持って居たのを、余は内々ひどく羨《うらや》んだものだ。其れは西郷戦争前であった。余等の仲間《なかま》では、仲の好い同志遊びに往ったり来たり泊《とま》ったりしたものだ。ある時余は学校の帰りに土肥君と他の二三人を「遊びに来《こ》らし」と引張って、学校から小一里もある余の家に伴《とも》のうた。遊んで居る内日が暮れたので、皆泊ることにした。土肥君は彼《あの》鼠《ねずみ》の様な眼を見据《みす》えて、やゝ不安な寂《さび》しそうな面地をして居たが、皆に説破されて到頭泊った。枕を並べて一寝入《ひとねい》りしたと思うと、余等は起された。土肥君の宅から迎えの使者が来たと云うのである。土肥君はいそ/\起きて一人帰って往
前へ
次へ
全171ページ中125ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 健次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング