朝から手桶とバケツとを振り分けに担《にの》うて、汐汲《しおく》みならぬ髯男の水汲と出かけた。両手に提げるより幾何《いくら》か優《まし》だが、使い馴れぬ肩と腰が思う様に言う事を聴いてくれぬ。天秤棒に肩を入れ、曳《えい》やっと立てば、腰がフラ/\する。膝はぎくりと折《お》れそうに、体は顛倒《ひっくりかえ》りそうになる。※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》と足を踏みしめると、天秤棒が遠慮会釈もなく肩を圧しつけ、五尺何寸其まゝ大地に釘づけの姿だ。思い切って蹌踉《ひょろひょろ》とよろけ出す。十五六歩よろけると、息が詰まる様で、たまりかねて荷《に》を下《お》ろす。尻餅|舂《つ》く様に、捨てる様に下ろす。下ろすのではない、荷が下りるのである。撞《どう》と云うはずみに大切の水がぱっとこぼれる。下ろすのも厄介だが、また担《かつ》ぎ上げるのが骨だ。路の二丁も担いで来ると、雪を欺く霜の朝でも、汗が満身に流れる。鼻息は暴風《あらし》の如く、心臓は早鐘をたゝく様に、脊髄《せきずい》から後頭部にかけ強直症《きょうちょくしょう》にかゝった様に一種異様の熱気《ねつけ》がさす。眼が真暗になる。頭がぐら/\する。勝手もとに荷を下ろした後《のち》は、失神した様に暫くは物も言われぬ。
 早速右の肩が瘤《こぶ》の様に腫《は》れ上がる。明くる日は左の肩を使う。左は勝手《かって》が悪いが、痛い右よりまだ優《まし》と、左を使う。直ぐ左の肩が腫れる。両肩《りょうかた》の腫瘤《こぶ》で人間の駱駝が出来る。両方の肩に腫れられては、明日《あす》は何で担ごうやら。夢の中にも肩が痛い。また水汲みかと思うと、夜《よ》の明《あ》くるのが恨めしい。妻が見かねて小さな肩蒲団を作ってくれた。天秤棒《てんびんぼう》の下にはさんで出かける。少しは楽だが、矢張苦しい。田園生活もこれではやりきれぬ。全体《ぜんたい》誰に頼まれた訳でもなく、誰|誉《ほ》めてくれる訳でもなく、何を苦しんで斯様《こんな》事《こと》をするのか、と内々|愚痴《ぐち》をこぼしつゝ、必要に迫られては渋面《じゅうめん》作って朝々通う。度重《たびかさ》なれば、次第《しだい》に馴れて、肩の痛みも痛いながらに固まり、肩腰に多少|力《ちから》が出来《でき》、調子がとれてあまり水をこぼさぬ様になる。今日《きょう》は八分だ、今日は九分だ、と成績《せいせき》の進むが一の楽《たのしみ》になる。
 然しいつまで川水を汲んでばかりも居られぬので、一月ばかりして大仕掛《おおじかけ》に井浚《いどさらえ》をすることにした。赤土《あかつち》からヘナ、ヘナから砂利《じゃり》と、一|丈《じょう》余《よ》も掘って、無色透明無臭而して無味の水が出た。奇麗に浚《さら》ってしまって、井筒にもたれ、井底《せいてい》深く二つ三つの涌き口から潺々《せんせん》と清水《しみず》の湧く音を聴いた時、最早《もう》水汲みの難行苦行《なんぎょうくぎょう》も後《あと》になったことを、嬉《うれ》しくもまた残惜しくも思った。
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     憶出のかず/\

       一

 跟《つ》いて来た女中は、半月手伝って東京へ帰った。あとは水入らずの二人きりで、田園生活が真剣にはじまった。
 意気地の無い亭主に連添《つれそ》うお蔭で、彼の妻は女中無しの貧乏世帯《びんぼうじょたい》は可なり持馴れた。自然が好きな彼女には、田園生活必しも苦痛ばかりではなかった。唯潔癖な彼女は周囲の不潔に一方《ひとかた》ならず悩《なや》まされた。一番近い隣《となり》が墓地に雑木林《ぞうきばやし》、生きた人間の隣は近い所で小一丁も離れて居る。引越早々所要あって尋ねて来た老年の叔母《おば》は「若い女なぞ、一人で留守《るす》は出来ない所ですねえ」と云った。それでも彼の妻は唯一人留守せねばならぬ場合もあった。墓地の向う隣に、今は潰れたが、其頃博徒の巣《す》があって、破落戸漢《ならずもの》が多く出入した。一夜家をあけてあくる夕帰った彼は、雨戸の外に「今晩は」と、ざれた男の声を聞いた。「今晩は」と彼が答えた。雨戸の外の男は昨日主が留守であったことを知って居たが、先刻《さっき》帰ったことを知らなかったのである。大にドキマギした容子《ようす》であったが、調子を更えて「宮前《みやまえ》のお広さん処へは如何《どう》参るのです?」と胡魔化した。宮前のお広さん処は、始終諸君が入り浸《びた》る其|賭博《とばく》の巣なのである。主の彼は可笑しさを堪《こら》え、素知らぬ振《ふり》して、宮前のお広さん処へは、其処の墓地に傍《そ》うて、ずッと往《い》って、と馬鹿叮嚀《ばかていねい》に教えてやった。「へえ、ありがとうございます」と云って、舌でも出したらしい気はいであった。門戸《もんこ》あけっぱなしで、人近く自然に近く生活すると、色々の薄
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