気味わるい経験もした。ある時彼が縁に背向《そむ》けて読書して居ると、後《うしろ》に撞《どう》と物が落ちた。彼はふりかえって大きな青大将《あおだいしょう》を見た。葺《ふ》きっぱなしの屋根裏の竹に絡《から》んで衣《から》を脱ぐ拍子に滑り落ちたのである。今一尺縁へ出て居たら、正《まさ》しく彼が頭上に蛇が降《ふ》るところであった。
人烟稀薄な武蔵野《むさしの》は、桜が咲いてもまだ中々寒かった。中塗《なかぬり》もせぬ荒壁は恣《ほしいまま》に崩れ落ち、床の下は吹き通し、唐紙障子《からかみしょうじ》も足らぬがちの家の内は、火鉢の火位で寒さは防げなかった。農家の冬は大きな炉《ろ》が命《いのち》である。農家の屋内生活に属する一切の趣味は炉辺に群がると云っても好い。炉の焚火《たきび》、自在《じざい》の鍋は、彼が田園生活の重《おも》なる誘因《ゆういん》であった。然し彼が吾有にした十五坪の此草舎には、小さな炉は一坪足らぬ板の間に切ってあったが、周囲《あたり》が狭《せま》くて三人とは座《すわ》れなかった。加之《しかも》其処は破れ壁から北風が吹き通し、屋根が低い割に炉が高くて、熾《さかん》な焚火は火事を覚悟しなければならなかった。彼は一月《ひとつき》ばかりして面白くない此《この》型《かた》ばかりの炉を見捨てた。先家主の大工や他の人に頼み、代々木新町の古道具屋《ふるどうぐや》で建具の古物を追々に二枚三枚と買ってもらい、肥車《こえぐるま》の上荷にして持て来てもろうて、無理やりにはめた。次の六畳の天井は、煤埃《すすほこり》にまみれた古葭簀《ふるよしず》で、腐《くさ》れ屋根から雨が漏《も》ると、黄ろい雫《しずく》がぼて/\畳に落ちた。屋根屋に頼んで一度ならず繕うても、盥《たらい》やバケツ、古新聞、あらん限りの雨うけを畳の上に並べねばならぬ時があった。驚いたのは風である。三本の大きなはりがねで家を樫《かし》の木にしばりつけてあるので、風当《かぜあた》りがひどかろうとは覚悟して居たが、実際吹かれて見て驚いた。西南は右の樫以外一本の木もない吹きはらしなので、南風西風は用捨《ようしゃ》もなくウナリをうってぶつかる。はりがねに縛《しば》られながら、小さな家はおびえる様に身震いする。富士川の瀬を越す舟底の様に床《ゆか》が跳《おど》る。それに樫の直ぐ下まで一面《いちめん》の麦畑《むぎばたけ》である。武蔵野固有の文言通《もんごんどお》り吹けば飛ぶ軽い土が、それ吹くと云えば直ぐ茶褐色の雲を立てゝ舞い込む。彼は前年|蘇士《スエズ》運河の船中で、船房の中まで舞い込む砂あらしに駭いたことがある。武蔵野の土あらしも、やわか劣《おと》る可き。遠方から見れば火事の煙。寄って来る日は、眼鼻口はもとより、押入《おしいれ》、箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》の中まで会釈《えしゃく》もなく舞い込み、歩けば畳に白く足跡がつく。取りも直さず畑が家内《やうち》に引越すのである。
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都をば塵の都と厭《いと》ひしに
田舎も土の田舎なりけり
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あまり吹かれていさゝかヤケになった彼が名歌である。風が吹く、土が飛ぶ、霜が冴《さ》える、水が荒い。四拍子|揃《そろ》って、妻の手足は直ぐ皸《ひび》、霜やけ、あかぎれに飾られる。オリーヴ油《ゆ》やリスリンを塗《ぬ》った位では、血が止まらぬ。主人の足裏《あしうら》も鯊《さめ》の顋《あご》の様に幾重《いくえ》も襞《ひだ》をなして口をあいた。あまり手荒《てあら》い攻撃に、虎伏す野辺までもと跟《つ》いて来た糟糠《そうこう》の御台所《みだいどころ》も、ぽろ/\涙をこぼす日があった。以前の比較的ノンキな東京生活を知って居る娘などが逗留《とうりゅう》に来て見ては、零落《れいらく》と思ったのであろ、台所の隅《すみ》で茶碗を洗いかけてしく/\泣いたものだ。
二
主人は新鋭の気に満ちて、零落どころか大得意であった。何よりも先ず宮益《みやます》の興農園から柄《え》の長い作切鍬、手斧鍬《ちょうなぐわ》、ホー、ハァト形のワーレンホー、レーキ、シャヴル、草苅鎌、柴苅鎌《しばかりがま》など百姓の武器と、園芸書類《えんげいしょるい》の六韜三略《りくとうさんりゃく》と、種子と苗《なえ》とを仕入れた。一反五|畝《せ》の内、宅地、杉林、櫟林を除いて正味一反余の耕地には、大麦小麦が一ぱいで、空地《あきち》と云っては畑の中程に瘠《や》せこけた桑樹と枯れ茅《かや》枯れ草の生えたわずか一畝に足らぬ位のものであった。彼は仕事の手はじめに早速其草を除き、重い作切鍬よりも軽いハイカラなワーレンホーで無造作に畝《うね》を作って、原肥無し季節御構いなしの人蔘《にんじん》二十日大根《はつかだいこん》など蒔《ま》くのを、近所の若い者は東京流の百姓は彼様《ああ
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