ブルが持ち出される。茶盆《ちゃぼん》で集めた投票《とうひょう》を、咽仏《のどぼとけ》の大きいジャ/\声《ごえ》の仁左衛門さんと、むッつり顔の敬吉《けいきち》さんと立って投票の結果を披露《ひろう》する。彼が組頭の爺さんが、忰《せがれ》は足がわるいから消防長はつとまらぬと辞退するのを、皆が寄ってたかって無理やりに納得《なっとく》さす。
 此れで事務はあらかた終った。これからは肝心《かんじん》の飲食《のみくい》となるのだが、新村入《しんむらいり》の彼は引越早々まだ荷も解かぬ始末《しまつ》なので、一座《いちざ》に挨拶し、勝手元に働いて居る若い人|達《だち》に遠《とお》ながら目礼して引揚げた。

           *

 日ならずして彼は原籍地《げんせきち》肥後国葦北郡水俣から戸籍を東京府北多摩郡千歳村字粕谷に移した。子供の頃、自分は士族だと威張《いば》って居た。戸籍を見れば、平民とある。彼は一時同姓の家に兵隊養子に往って居たので、何時の間にか平民となって居た。それを知らなかったのである。吾れから捨《す》てぬ先《さ》きに、向うからさっさと片づけてもらうのは、魯智深《ろちしん》の髯《ひげ》ではないが、些《ちと》惜しい気もちがせぬでもなかった。兎に角彼は最早|浪人《ろうにん》では無い。無宿者でも無い。天下晴れて東京府北多摩郡千歳村字粕谷の忠良なる平民何某となったのである。
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     水汲み

 玉川に遠いのが第一の失望で、井《いど》の水の悪いのが差当っての苦痛であった。
 井は勝手口《かってぐち》から唯六歩、ぼろ/\に腐った麦藁屋根《むぎわらやね》が通路と井を覆《おお》うて居る。上窄《うえすぼま》りになった桶《おけ》の井筒《いづつ》、鉄の車《くるま》は少し欠《か》けてよく綱がはずれ、釣瓶《つるべ》は一方しか無いので、釣瓶縄《つるべなわ》の一端を屋根の柱に結《ゆ》わえてある。汲み上げた水が恐ろしく泥臭いのも尤、錨《いかり》を下ろして見たら、渇水《かっすい》の折からでもあろうが、水深《すいしん》が一尺とはなかった。
 移転の翌日、信者仲間の人達が来て井浚《いどさら》えをやってくれた。鍋蓋《なべぶた》、古手拭《ふるてぬぐい》、茶碗のかけ、色々の物が揚《あ》がって来て、底は清潔になり、水量も多少は増したが、依然たる赤土水の濁《にご》り水で、如何に無頓着の彼でもがぶ/\飲む気になれなかった。近隣の水を当座《とうざ》は貰《もら》って使ったが、何れも似寄《によ》った赤土水である。墓向うの家の水を貰いに往った女中が、井を覗《のぞ》いたら芥《ごみ》だらけ虫だらけでございます、と顔を蹙《しか》めて帰って来た。其向う隣の家に往ったら、其処《そこ》の息子が、此《この》家《うち》の水はそれは好い水で、演習行軍に来る兵隊なぞもほめて飲む、と得意になって吹聴したが、其れは赤子の時から飲み馴れたせいで、大した水でもなかった。
 使い水は兎に角、飲料水《いんりょうすい》だけは他に求めねばならぬ。
 家《うち》から五丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水《ながれ》がある。玉川上水《たまがわじょうすい》の分派で、品川方面の灌漑専用《かんがいせんよう》の水だが、附近の村人は朝々顔も洗えば、襁褓《おしめ》の洗濯もする、肥桶も洗う。何《な》ァに玉川の水だ、朝早くさえ汲めば汚ない事があるものかと、男役に彼は水汲《みずく》む役を引受けた。起きぬけに、手桶《ておけ》と大きなバケツとを両手に提げて、霜を※[#「足へん+咨」、第4水準2−89−41]《ふ》んで流れに行く。顔を洗う。腰膚ぬいで冷水|摩擦《まさつ》をやる。日露戦争の余炎がまださめぬ頃で、面《めん》籠手《こて》かついで朝稽古から帰って来る村の若者が「冷たいでしょう」と挨拶することもあった。摩擦を終って、膚《はだ》を入れ、手桶とバケツとをずンぶり流れに浸して満々《なみなみ》と水を汲み上げると、ぐいと両手に提げて、最初一丁が程は一気に小走りに急いで行く。耐《こら》えかねて下ろす。腰而下の着物はずぶ濡れになって、水は七|分《ぶ》に減って居る。其れから半丁に一休《ひとやすみ》、また半丁に一憩《ひといこい》、家を目がけて幾休みして、やっと勝手に持ち込む頃は、水は六分にも五分にも減って居る。両腕はまさに脱《ぬ》ける様だ。斯くして持ち込まれた水は、細君《さいくん》女中《じょちゅう》によって金漿《きんしょう》玉露《ぎょくろ》と惜《おし》み/\使われる。
 余り腕が痛いので、東京に出たついでに、渋谷の道玄坂《どうげんざか》で天秤棒《てんびんぼう》を買って来た。丁度《ちょうど》股引《ももひき》尻《しり》からげ天秤棒を肩にした姿を山路愛山君に見られ、理想を実行すると笑止《しょうし》な顔で笑われた。買って戻《もど》った天秤棒で、早速翌
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