遙《はるか》に迦南《カナン》を望むことを許されて、入ることを許されずに終るかも知れぬ。然し翁の心は已にキトウス山を越えて居る。而して翁が百歳の後、其精神は後の若者の体《からだ》を仮《か》って復活し、必彼山を越え、必彼大無人境を拓《ひら》くであろう。汽車はます/\国境の山を上る。尾花に残る日影《ひかげ》は消え、蒼々《そうそう》と暮れ行く空に山々の影も没して了うた。余は猶《なお》窓に凭って眺める。突然白いものが目の前に閃《ひら》めく。はっと思って見れば、老木《ろうぼく》の梢《こずえ》である。年久しく風霜《ふうそう》と闘うて皮《かわ》は大部分|剥《は》げ、葉も落ちて、老骨《ろうこつ》稜々《りょうりょう》たる大蝦夷松《おおえぞまつ》が唯一つ峰に突立《つった》って居るのであった。
余の胸は一ぱいになった。
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君に別れ十勝の国の国境《くにざかひ》
今|越《こ》ゆるとてふりかへり見し
かへり見《み》れば十勝は雲になりにけり
心に響く斗満《とま》の川音《かはおと》
雲か山か夕霧《ゆふぎり》遠く隔《へだ》てにし
翁《おきな》が上《うへ》を神《かみ》護《まも》りませ
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斯く出たらめをはがきに書いつけ、石狩《いしかり》の鹿越駅《しかごええき》で関翁|宛《あて》に投函《とうかん》した。」
三
武蔵野の彼等が斗満を訪《と》うた其年の冬、関翁は最後の出京して、翌明治四十四年の四月斗満に帰った。出京中に二度|粕谷《かすや》の茅廬《ぼうろ》に遊びに来た。三月の末二度目に来た時は、他の来客や学生なぞに深呼吸の仕方などして見せ、一泊して帰った。最早今回限り東京には出て来ぬ決心という話であった。主人《あるじ》は甲州街道まで翁を送った。馬車を待って乗るから構《かま》わず帰れと翁が云うので、翁を茶店の前に残し、少し用を達《た》して戻《もど》りかけると、馬車はすれ違《ちが》いに通ったが、車中に翁の影が見えない。と見ると茶店の方から古びた茶の中折帽《なかおれぼう》をかぶって、例《れい》の癖《くせ》で下顋《したあご》を少し突出し、濡《ぬ》れ手拭を入れた護謨《ごむ》の袋《ふくろ》をぶら提《さ》げながら、例の足駄《あしだ》でぽッくり/\刻足《きざみあし》に翁が歩いて来る。此時も明治四十一年の春初めて来た時着て居た彼|無地《むじ》の木綿羽織だった。「乗れませんでしたか」「満員だった」「今車を呼んで来ます」「何、構わん、構わん」と翁が手を掉《ふ》る。然し翁の足つきは両三年前よりは余程弱って見えた。四五丁走って、懇意《こんい》の車屋を頼み、翁のあとを追いかけさせた。
翁は斗満に帰ってから、実桜《チェリー》の苗《なえ》二本送って呉れた。其夏久しく気にかけて居た余作君の結婚が済《す》んだ事を報じてよこした。其秋の九月二十六日は雨だった。一周年前彼等が斗満に着いた其|翌日《よくじつ》も雨だった。彼はこんな出たらめを翁に書き送った。
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去年《こぞ》の今日《けふ》も斯《か》くは降《ふ》りきと秋《あき》の雨
眺めて独君をしぞおもふ
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程なく翁から其|雑著《ざっちょ》出版《しゅっぱん》の事を依頼して来た。此春翁と前後して北へ帰った雁《かり》がまた武蔵野の空に来《き》鳴《な》く時となった。然し春の別れの宣言の如く、翁は再び斗満を出なかった。秋から冬にかけて、翁は心身の病に衰弱甚しく、已に覚期《かくご》をした様であったが、年と共に玉《たま》の緒《お》新《あらた》に元気づき、わずかに病床を離るゝと直ぐ例の灌水《かんすい》をはじめ、例の細字《さいじ》の手紙、著書の巻首《かんしゅ》に入る可き「千代かけて」の歌を十三枚、著書を配布《はいふ》す可き二百幾名の住所姓名を一々|明細《めいさい》に書いて来た。翁にとりては此が形見《かたみ》のつもりであったのである。
「命《いのち》の洗濯《せんたく》」「命《いのち》の鍛錬《たんれん》」「旅行日記」「目ざまし草」「関牧場創業記事」「斗満《とまむ》漫吟《まんぎん》」をまとめて一|冊《さつ》とした「命の洗濯」は、明治四十五年の三月中旬東京|警醒社書店《けいせいしゃしょてん》から発行された。翁は其出版を見て聊《いささか》喜《よろこび》の言を漏《も》らしたが、五月初旬には愈《いよいよ》死を決したと見えて、逗子《ずし》なる老父の許《もと》と粕谷《かすや》の其子の許へカタミの品々を送って来た。其は翁が八十の祝《いわい》に出来た関牧場の画模様《えもよう》の服紗《ふくさ》と、命の洗濯、旅行日記、目ざまし草に一々|歌《うた》及《および》俳句《はいく》を自署《じしょ》したものであった。両家族の者残らずに宛《あ》てゝ、各別《かくべつ》に名前を書
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