くすり》は強過ぎ云々と云って居た。宮崎君夫婦はもともと一文無《いちもんな》しで渡道《とどう》し、関家に奉公中|貯蓄《ちょちく》した四十円を資本とし、拓《ひら》き分《わ》けの約束で数年前此原野を開墾《かいこん》しはじめ、今は十町歩も拓いて居る。今年は豆類其他で千円も収入《みいり》があろうと云うことであった。細君の阿爺《ちゃん》が遙々《はるばる》讃岐《さぬき》から遊びに来て居る。宮崎君の案内で畑を見る。裏には真桑瓜《まくわうり》が蔓《つる》の上に沢山ころがり、段落《だんお》ちの畑には土が見えぬ程玉蜀黍が茂り、大豆《だいず》は畝《うね》から畝に莢《さや》をつらねて、試《こころみ》に其一個を剖《さ》いて見ると、豆粒《つぶ》の肥大《ひだい》実に眼を驚かすものがある。他の一二の小屋は訪わず、玉蜀黍を喰《く》い喰い帰る。北海道の玉蜀黍は実に甘《うま》い。先年皇太子殿下(今上《きんじょう》陛下《へいか》)が釧路《くしろ》で玉蜀黍を召《め》してそれから天皇陛下へおみやげに玉蜀黍を上げられたも尤《もっとも》である。
 午後は又一君の案内で、アイヌの古城址《こじょうし》なるチャシコツを見る。※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−310−15]別川《りくんべつがわ》に臨んだちょっとした要害《ようがい》の地、川の方は断崖《だんがい》になり、後《うしろ》はザッとしたものながら、塹濠《ざんごう》をめぐらしてある。此処から見ると※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−310−17]別は一目だ。関翁は此坂の上に小祠《しょうし》を建《た》てゝ斃死《へいし》した牛馬の霊《れい》を祭《まつ》るつもりで居る。
 夕方三人で又一君宅の風呂《ふろ》をもらいに行く。実は過日来|往返《おうへん》の毎《たび》に斗満橋《とまむばし》の上から見て羨《うらや》ましく思って居たのだ。風呂は直ぐ川端《かわばた》で、露天《ろてん》に据《す》えてある。水に強いと云う桂《かつら》の径《わたり》二尺余の刳《く》りぬき、鉄板《てっぱん》を底《そこ》に鋪《し》き、其上に踏板《ふみいた》を渡したもので、こんな簡易《かんい》な贅沢《ぜいたく》な風呂には、北海道でなければ滅多《めった》に入られぬ。秋の日落ち谷|蒼々《そうそう》と暮るゝ夕《ゆうべ》、玉の様な川水を沸《わか》した湯に頸《くび》まで浸《ひた》って、直ぐ傍《そば》を流るる川音を聴いて居ると、陶然《とうぜん》として即身成仏《そくしんじょうぶつ》の妙境《みょうきょう》に入《い》って了う。
 夜|上利別《かみとしべつ》のマッチ製軸所《せいじくしょ》支配人|久禰田《くねだ》孫兵衛《まごべえ》君に面会。もと小学教師をした淡路《あわじ》の人、真面目な若者である。二里の余もある上利別から始終《しじゅう》関翁の話を聞きに来るそうだ。
 九月三十日。晴。雪のような朝霜。
 最早斗満を去らねばならぬ日となった。
 早朝関翁以下|駅逓《えきてい》の人々に別を告げる。斗満橋を渡って、見かえると、谷を罩《こ》むる碧《あお》い朝霧《あさぎり》の中に、関翁は此方に向い、杖《つえ》の頭《かしら》に両手を組《く》んで其上に額《ひたい》を押付《おしつ》けて居られた。
 ※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−311−12]別で余作君に別れ、足寄駅《あしょろえき》で五郎君の勤務した郵便局を教えられ、高島駅《たかしまえき》で又一君に別れ、池田駅で旭川行《あさひかわゆき》の汽車に乗換え、帯広《おびひろ》で貢君に別れ、余等は来た時の同行三人となって了った。汽車は西へ西へと走って、日の夕暮《ゆうぐれ》に十勝《とかち》国境《こっきょう》の白茅《はくぼう》の山を石狩《いしかり》の方へと上《のぼ》った。此処の眺望《ながめ》は全国の線路に殆《ほと》んど無比である。越し方《かた》を顧《かえり》みれば、眼下《がんか》に展開する十勝の大平野《だいへいや》は、蒼茫《そうぼう》として唯|雲《くも》の如くまた海の如く、却《かえっ》て北東の方を望めば、黛色《たいしょく》の連山《れんざん》波濤《はとう》の如く起伏して居る。彼山々こそ北海道中心の大無人境を墻壁《しょうへき》の如く取囲《とりかこ》む山々である。関翁の心は彼の山々の中にあるのだ。余は窓に凭《よ》って久しく其方を眺めた。中に尤も東北の方に寄って一峯《いっぽう》特立《とくりつ》頗《すこぶる》異彩《いさい》ある山が見える。地理を案ずるに、キトウス山ではあるまいか。斗満川《とまむがわ》の水源、志ある人と共にうち越えて其山の月を東に眺めんと関翁が歌うたキトウス山ではあるまいか。関翁の心はとく彼山を越えて居る。然しながら翁も老齢《ろうれい》已に八十を越した。其身其心に随うて彼山を越ゆることが出来るや否や、疑問である。或は翁は摩西《モーゼ》の如く、
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