いてあった。「人並《ひとなみ》の道は通《とお》らぬ梅見かな」の句が其の中にあった。短冊《たんざく》には、
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辞世 一 諸《もろ》ともに契《ちぎ》りし事は半《なかば》にて
斗満《とまむ》の露と消えしこの身は[#地から10字上げ]八十三老白里
辞世 二 骨も身もくだけて後ぞ心には
永く祈らん斗満《とま》の賑《にぎはひ》[#地から10字上げ]八十三老白里
死後希望 露の身を風にまかせてそのまゝに
落れば土と飛んでそらまで[#地から10字上げ]八十三老白里
死後希望 死出《しで》の山越えて後にぞ楽まん
富士の高根《たかね》を目の下に見て[#地から10字上げ]八十三老白里
[#ここで字下げ終わり]
と書いてあった。
*
七月初旬、翁の手紙が来て、余作君は斗満を去り、以前の如く医を以て立つことに決し、自身は斗満に留ることを報じた。書末《しょまつ》に左の三首の歌があった。
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寄川恋
我恋は斗満《とまむ》の川の水の音
夜ひるともにやむひまぞなき
病床独吟
憂き事の年をかさねて八十三《やそみ》とせ
尽きざる罪になほ悩《なや》みつゝ
死後希望
身は消えて心はうつるキトウスと
十勝石狩両たけのかひ
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翁の絶筆《ぜっぴつ》であった。
四
翁が晩年の十字架は、家庭に於ける父子意見の衝突であった。父は二宮流《にのみやりゅう》に与えんと欲し、子は米国風《べいこくふう》に富まんことを欲した。其《その》為《ため》関家の諍《あらそい》は、北海道中の評判となり、色々の風説をすら惹起《ひきおこ》した。翁は其為に心身の精力を消磨《しょうま》した。然し翁は自《みずか》ら信ずること篤《あつ》く、子を愛すること深く、神明《しんめい》に祈り、死を決して其子を度《ど》す可く努めた。
最後の手紙を受取ってから四ヶ月過ぎた。武蔵野の家族が斗満《とまむ》を訪《おとず》れた其二周年が来た。雁《かり》は二たび武蔵野の空に来《き》鳴《な》いた。此四ヶ月の間には、明治天皇の崩御《ほうぎょ》、乃木翁《のぎおう》の自刃《じじん》、など強い印象を人に与うる事実が相ついだ。北の病翁《びょうおう》に如何に響《ひび》いたであろうか、と気にかゝらぬではなかったが、推移《おしうつ》って居る内に、突然翁の訃報《ふほう》が来た。
翁は十月十五日、八十三歳の生涯を斗満なる其子の家に終えたのである。翁の臨終《りんじゅう》には、形《かたち》に於て乃木翁に近く、精神に於てトルストイ翁に近く、而して何《いず》れにもない苦しみがあった。然し今は詳《つまびらか》に説く可き場合でない。
翁の歌に、
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遠く見て雲か山かと思ひしに
帰ればおのが住居《すまひ》なりけり
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遮莫《さもあらばあれ》永い年月《としつき》の行路難《こうろだん》、遮莫《さもあらばあれ》末期《まつご》十字架の苦《くるしみ》、翁は一切《いっさい》を終えて故郷《ふるさと》に帰ったのである。
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次郎桜
朝、珍らしく角田《つのだ》の新五郎さんが来た。何事か知らぬが、もうこゝでと云うのを無理やりに座敷《ざしき》に請《しょう》じた。新五郎さんは耶蘇《やそ》信者《しんじゃ》で、まことに善良な人であるが、至って口の重い人で、疎遠《そえん》の挨拶《あいさつ》にややしばし時間を移《うつ》した。それから新五郎さんは重い口を開いて、
「実は――隣《となり》の勘五郎さんでございますが、其の――勘五郎さん処《とこ》の次郎さんが亡くなられまして――」
「エッ、次郎さんが? 次郎さんが死んだんですか」
青山《あおやま》学院《がくいん》で最早《もう》試験前の忙《せわ》しくして居るであろうと思った次郎少年が死んだとは、嘘《うそ》の様な話だ。
新五郎さんは、持て来た医師の診断書を見せた。急性肺炎とある。急報に接して飛んで往った次郎さんの阿爺《おとっさん》も、間《ま》に合わなかったそうである。夜にかけて釣台《つりだい》にのせて連れて来て、組合中《くみあいじゅう》の都合《つごう》で今日《きょう》葬式《そうしき》をすると云うのである。
新五郎さんは直ぐ帰り、夫婦も直ぐあとから出かけた。
次郎さんは、千歳村《ちとせむら》で唯五軒の耶蘇信者の其一軒に生れて、名の如く次男であった。粕谷《かすや》の夫妻が千歳村に移住《いじゅう》した其春、好成績《こうせいせき》で小学校を卒業し、阿爺は師範《しはん》学校《がっこう》にでも入れようかと云って居たのを、勧《すす》めて青山学院に入れた。学資不足なので、彼
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